フェルディナン・ド・マルサンとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フェルディナン・ド・マルサンの意味・解説 

フェルディナン・ド・マルサン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/14 06:53 UTC 版)

フェルディナン・ド・マルサン(Ferdinand de Marsin, 1656年2月10日 - 1706年9月9日)は、フランス王国ブルボン朝の軍人。グランヴィル伯ジャン・ガスパール・フェルディナン・ド・マルサンの子。リエージュ出身。

フランス軍に所属して軍歴を重ね、大同盟戦争リュクサンブール公の軍に従軍して南ネーデルラントを転戦、1690年フルーリュスの戦いで負傷したり、1693年ネールウィンデンの戦いイングランドウィリアム3世と戦い、シャルルロワの包囲にも加わった。1701年から1702年までに駐スペイン大使として活動、スペイン継承戦争ではイタリア戦線へ出向きルッザーラの戦いに参戦、ドイツ戦線に移り1703年シュパイアーバハの戦いにも加わり、戦後元帥に昇進した。

1704年ヴィラールに代わってバイエルン選帝侯マクシミリアン2世の補佐を務め、タラール伯と共にドナウ川に勢力を張った。しかし、マールバラ公ジョン・チャーチルプリンツ・オイゲンが率いるイングランド・オーストリアブレンハイムの戦いで大敗、一気に劣勢に傾いてしまった。1705年から復帰したヴィラールと交替、ネーデルラントに送られた。1706年に一旦ドイツのヴィラールと合流した後ネーデルラントに戻り、ラミイの戦いで敗北したヴィルロワ公の救援に向かった後、ネーデルラントにヴァンドーム公が出向きヴィルロワは更迭、マルサンはオルレアン公フィリップ2世と共にヴァンドームが担当していたイタリア戦線へ異動となった。

だが、トリノ包囲中に救援に向かったオイゲンへの対応でフィリップ2世と対立、有効な策が取れないまま9月7日のオイゲンの襲撃で大敗して致命傷を負い、2日後の9月9日に死去(トリノの戦い)。トリノはオーストリア軍に解放され、翌1707年ナポリもオーストリア軍に制圧され、イタリア戦線は崩壊した。

参考文献

  • 友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史彩流社、2007年。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フェルディナン・ド・マルサン」の関連用語

フェルディナン・ド・マルサンのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フェルディナン・ド・マルサンのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフェルディナン・ド・マルサン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS