ドイツ方面とは? わかりやすく解説

ドイツ方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 03:50 UTC 版)

スペイン継承戦争」の記事における「ドイツ方面」の解説

フランスドイツにも軍を送りアルザス拠点としてライン川流域ラインラント)で東進狙っていた。これに対してバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが対岸ストラスブールからシュトルホーフェンに及ぶ防衛線を構築フランス軍待ち構えていた。1702年ヴィラールは、バイエルン挙兵しマクシミリアン2世呼応してライン川渡河決意ライン川南下して南岸フリートリンゲンの戦い皇帝軍に勝利したが、一旦ストラスブール引き上げ、翌1703年再度南下してライン川渡河バイエルン軍合流してオーストリア首都ウィーンに迫る勢いだった。 しかし、方針巡ってヴィラールマクシミリアン2世対立ヴィラールフランスへ召還されタラール伯カミーユ・ドスタンとフェルディナン・ド・マルサンヴィラール後任としてドイツ方面を受け持ったが、1704年ブレンハイムの戦いマールバラ公オイゲン率い同盟軍大敗してタラール捕虜となり、マルサンライン川後退してマクシミリアン2世ネーデルラント亡命ドナウ川フランス軍消滅してライン川戦線劣勢になった。1705年ライン川方面軍に復帰したヴィラールマールバラ公南下阻止ライン川戦線立て直したヴィラールは翌1707年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムが死去してライン川司令官となったバイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストが守るシュトルホーフェンを攻撃、クリスティアン・エルンストが放棄したシュトルホーフェン防衛線を突破バーデン・ヴュルテンベルク略奪して回り大戦果を上げた失態演じたクリスティアン・エルンストは罷免されハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のイギリス王ジョージ1世)がライン川に向かうと、ヴィラールアルザス引き上げた1708年ヴィラールライン川方面向かったマクシミリアン2世再度対立したため、ヴィラール南フランス左遷されスペイン方面活躍していたベリックジェームズ・フィッツジェームズスペインからライン川転任しマクシミリアン2世補佐務めた後、ライン川北岸コブレンツで兵を集めネーデルラント向かったオイゲンの後を追って北上ネーデルラントブルゴーニュ公ヴァンドーム合流アウデナールデの戦い損害受けたフランス軍立て直し同盟軍迎撃当たった以後ライン川戦線進展が無いまま終戦迎えることになる。

※この「ドイツ方面」の解説は、「スペイン継承戦争」の解説の一部です。
「ドイツ方面」を含む「スペイン継承戦争」の記事については、「スペイン継承戦争」の概要を参照ください。

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