元帥時代とは? わかりやすく解説

元帥時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 22:37 UTC 版)

ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト」の記事における「元帥時代」の解説

翌年には元帥昇進1805年アウステルリッツの戦いでは勝利を決定付ける類い希働き見せナポレオンをして「ヨーロッパで最も優れた戦術家」と言わしめ、この時彼が率いた第4軍団は「スールト擲弾兵」として賞賛された。1808年にはナポレオン新設した「ダルマティア公爵」位に叙されている。ドイツ戦役オーストリア戦役でも常に抜群働き見せたが、スペイン戦役半島戦争)では余りに酷い略奪振りいがみ合う同僚取りまとめ失敗(というよりまとめる気が最初から無かったというべきか)で統率者としての能力欠ける点を露呈してしまう。また、一時期スペイン王位への妄想じみた野心まで抱いており、一時反逆罪軍法会議掛けられかけたという。この後スペイン方面中心に活動する傍ら主戦場となったドイツ方面でも戦っており、戦場では優れた働き見せるものの戦略的に劣勢に追い込まれ1814年ナポレオン退位した時にはフランス国内のトゥールーズイギリス軍包囲されていた。

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元帥時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/06 22:19 UTC 版)

アンドレ・マッセナ」の記事における「元帥時代」の解説

1804年皇帝即位したナポレオンは、マッセナ軍務復帰させ、合わせて元帥昇進させた。1805年、再びイタリア方面軍司令官任命されヴェローナ制圧しオーストリア軍進軍阻み、さらに同年10月30日のカルディエロの戦いでオーストリア軍破って多数捕虜得た1806年ナポレオンの兄ジョゼフナポリ王になると、マッセナナポリ軍の指揮権与えられた。しかし、このときも略奪働いたために現地人反感を買った1808年リヴォリ公爵叙せられた。 1809年第五次対仏大同盟結成されると、マッセナ第4軍団司令官となり、オーストリア侵攻したアスペルン・エスリンクの戦いで、フランス軍前衛敗退したとき、マッセナ第4軍団友軍救援し、さらに橋頭堡守り抜いた。この功績と、続くヴァグラムの戦い上げた功績により、エスリンク大侯爵叙せられた。 1810年マッセナポルトガル方面軍司令官任命され半島戦争加わった同年9月27日、ブサコの戦いで初め同盟軍衝突したイギリス軍司令官初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーは、決戦避けて同盟軍をトレス・ヴェドラス線まで後退させた。マッセナ軍はトレス・ヴェドラス線を抜けないまま、徐々に消耗していった。1811年イギリス軍援軍到着する戦況逆転し同年3月5日のバロッサの戦い同年5月3日のフェンテス・デ・オニョーロの戦いなどでフランス軍敗退繰り返したマッセナ軍司令官解任されマルセイユ司令官降格された。

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