ヴァグラムの戦い
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ヴァグラムの戦い | |
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![]() ヴァグラムの戦い | |
戦争:オーストリア戦役(ナポレオン戦争) | |
年月日:1809年7月5日-7月6日 | |
場所:オーストリア東部ウィーン近郊 | |
結果:フランス軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
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戦力 | |
188,000 野砲 500門 |
155,000 野砲 450門 |
損害 | |
死傷 32,500 捕虜 7,000 |
死傷 40,000 |
ヴァグラムの戦い(ヴァグラムのたたかい, 英:Battle of Wagram, 仏:Bataille de Wagram, 1809年7月5日-7月6日[1])は、ナポレオン戦争における戦闘の1つ。ウィーン北東15キロメートルにあるドナウ川北岸の町ヴァグラムの周辺地域で、皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍と、カール大公率いるオーストリア軍とが戦った。ワグラムの戦いとも表記される[2]。
フランス軍18万、オーストリア軍15万という大軍同士が激突し、合わせて7万以上の死傷者を出した。戦いはフランス軍が勝利し、オーストリアはシェーンブルンの和約を結んで屈服した。
背景
1809年4月9日、オーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結びフランスへ宣戦した。ナポレオンは速やかに反撃に移り、エックミュールの戦いでカール大公率いるオーストリア軍主力に勝利して、オーストリアの首都ウィーンに入城した。ドナウ川の北岸へ退却した10万のオーストリア軍主力に対し、5月21日-22日、ナポレオンは7万のフランス軍をもって渡河作戦を決行し決戦を挑もうとするが、半渡のところをカール大公の的確な指揮に衝かれて敗北を喫した。
このアスペルン・エスリンクの戦いの後、しばらく膠着状態が続いた。この間、フランス軍にはウジェーヌとマクドナルの率いるイタリア王国軍、マルモン軍団、ポニャトフスキの率いるポーランド軍、バイエルン軍が来着して18万の大軍となり、オーストリア軍も15万の兵力を集結させた。そのころチロルでのアンドレアス・ホーファーの蜂起や、ネーデルラントにあるワルヘレン島へのイギリス軍の上陸など背後での動きも活発化し、ナポレオンにもあまり時間の余裕はなかった。ナポレオンは再度カール大公へ決戦を挑んだ。
経過
ナポレオンはアスペルン・エスリンクの戦いでの失敗を繰り返さぬよう周到な計画を練っていた。ロバウ島に集結していたフランス軍は、7月4日の暴風雨の夜をあえて選んで渡河作戦を決行し、対岸からも同時に架橋作業を実施することで迅速に舟橋を構築して、大軍を一気に渡河させた。ただ、このとき参謀長ベルティエは誤って2つの軍団に同じ橋を割り当ててしまい、一時的な遅れが生じた。
オーストリア軍は完全に不意を衝かれ、川岸に展開していた警戒部隊は蹴散らされた。フランス軍は7月5日の昼までにアスペルンからエスリンクの一帯を制圧し、午後には18万の大軍が渡河を完了した。フランス軍は左翼にマッセナ軍団、中央部にベルナドットの率いるザクセン軍団、ウジェーヌ軍団、ウディノ軍団、右翼にダヴー軍団を配置し、20キロメートルにわたる半円陣形を形成した。ナポレオンはヨハン大公が率いるオーストリア軍の別働隊12,500が駆けつける前に勝負をつけたいと考え、7月5日中の攻撃を試みたが、このときは小規模な攻撃にとどまり失敗した。
翌7月6日早朝、戦闘が再開された。最初にオーストリア軍が主導権を握り、フランス軍右翼へ攻撃を仕掛けた。これは陽動作戦で、続いて第3、第6軍団による本格的な攻撃がフランス軍左翼へ向けられた。ベルナドット指揮下のザクセン軍団は後退させられ、さらにブーデ師団が潰走させられてフランス軍の後方連絡線が脅かされた。これに対して、フランス軍ではマッセナ軍団の一部と騎兵が増援に向かい、さらにロバウ島から砲撃を浴びせてオーストリア軍の攻勢を停止させた。
一方、右翼ではダヴー軍団がオーストリア軍を押し返していた。ナポレオンの戦術眼はこの好機を見逃さなかった。オーストリア軍全体の扇の要となっていた中央部へ向けて、マクドナル軍団と近衛軍団に突破攻撃を命じ、マクドナルは指揮下の8,000の兵力をくさび型に編成してオーストリア軍中央部へ銃剣突撃を仕掛けた。ラサール将軍も援軍として駆けつけ、援護突撃を行った。凄惨な戦いが繰り広げられ、オーストリア軍は中央部を突破され、分断された。
午後4時、ヨハン大公の別働隊が戦場に到着した頃には勝敗は決していた。オーストリア軍は死傷者40,000の損害を受け、戦闘能力は残っていたが敗北は明らかであった。一方、フランス軍の損害も死傷32,500、捕虜7,000に及んだ。
影響
7月10日、オーストリアは停戦を申し入れ、12日に停戦協定が成立した。同日、フランス軍では戦功によってマクドナル、ウディノ、マルモンが元帥へ昇進し、ベルティエは(失策は犯したものの)ヴァグラム大公爵に叙せられた。
10月14日、オーストリアはシェーンブルンの和約を結んで屈服した。広大な領土をフランスやバイエルンへ割譲させられ、そのうえ巨額の賠償金を課せられた。こうして1809年におけるオーストリアのナポレオンへの挑戦は失敗に終わった。ナポレオンの帝国は絶頂期を迎える。
ヴァグラムで戦ったオーストリア軍は、旧来の傭兵軍から脱皮しつつあった。アウステルリッツでの屈辱的敗北以来、オーストリアが営々と進めてきた軍制改革によって、革命によって生まれ変わったフランス軍と同様に、国民としての意識を持ち、個人的な名誉や利益のためではなく祖国のために戦う国民軍としての性格を強めていたのである。だが彼らがライプツィヒでの輝かしい勝利を勝ち取るまでには、あと数年の歳月が必要であった。
脚注
- ^ “戦いの回廊・ナポレオン執念の勝利 Galerie des Batailles in Ch teau de Versailles”. ライブドアニュース (2013年9月2日). 2020年7月4日閲覧。
- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月21日閲覧。
参考文献
- エミール・ブカーリ(著), 小牧大介(訳), 『ナポレオンの元帥たち フランス帝国の群雄伝』, 新紀元社 (2001/7), ISBN 4883178862
- David G. Chandler, Campaigns of Napoleon: The Mind and Method of History's Greatest Soldier, 1973, ISBN 0025236601
- David G. Chandler, Dictionary of the Napoleonic Wars (Wordsworth Military Library), Wordsworth Editions Ltd, 1999, ISBN 1840222034
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ヴァグラムの戦い
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「1809年オーストリア戦役」の記事における「ヴァグラムの戦い」の解説
詳細は「ヴァグラムの戦い」を参照 アスペルン・エスリンクの戦いで敗北した後、ナポレオンは6週間以上計画を立案し、再度ドナウ川を渡ろうとするまでの間、万一の可能性に備えた。フランスはより多くの軍勢と大砲を連れてきて、次の渡河の成功を保証するためのより良い防衛手段を講じた。6月30日から7月初旬にかけてフランスはドナウ川をもう一度渡ろうとし、188,000名の軍がマルスフェルトを通って行軍した。フランスの進軍に対して前哨部隊のノルトマンとヨハン・フォン・クレーナウ(英語版)の師団はすぐに抵抗する事は制限されていた。オーストリアの主軍は8kmほど離れた場所に駐在しており、その中心はヴァグラムという村であった。渡河に成功した後、夜間にオーストリア軍が退却する事を防ぐ為、ナポレオンは全線で攻撃を命じた。第57戦列歩兵連隊と第10軽歩兵連隊はパルバスドルフ(英語版)という村に対して、猛烈な攻撃を仕掛け迅速にフランスの勝利を導こうとした。しかし結局オーストリア軍はフランスの攻勢を防ぎ、その場を動かなかった。英雄的なオーストリアのヴィンセント騎兵隊の間断ない攻撃により、第10連隊と第17連隊は撤退を余儀なくされ、フランスは何も得られず退却した。ウジェーヌとマクドナルの左翼に対する更なる攻撃では何も得られなかった。ベルドナットの軍による攻撃が後で行われたがこちらも失敗に終わり、右翼のダヴーは夜の暗さのために交戦を停止する事を決意した。こうして戦いの初日をフランスはマルスフェルトで終えたが、これらの努力にも関わらず、戦果はほとんど得られなかった。 7月6日カール大公は彼の弟のヨハン大公の迅速な行軍が要求される両翼包囲を計画した。この時ヨハンは戦場から東に数kmの地点にいた。ナポレオンの計画ではオーストリアの左翼への展開はダヴーの第3軍団に任せ、残りの軍がオーストリア軍を押さえつける事を想像していた。コロヴラートの第3軍団に支援されたクレーナウの第6軍団は2日目の午前4時から戦闘を開始しフランスの左翼を粉砕し、後にフランスはアスペルン・エスリンクの両方を放棄せざるを得なくなった。一方その間に部隊の展開が夜通しで行われた。ベルナドットはアダークラアという村の中心と要所から出ていくように自身の軍に一方的に命じたが、この動きはフランス全軍の陣形を大きく崩すものであった。ナポレオンは激怒し、この危機的な村を奪還するために2個師団と騎兵によって支援されていたマッセナの軍団を送った。最初の段階では激しい戦いが行われたが、マッセナはモリトールの予備兵力を投入した。この予備兵力は緩やかではあったがアダークラアを全てフランスの手に戻したものの、オーストリアの激しい砲撃と反撃によって再度失った。ダヴーの攻撃の為の時間を稼ぐためにナポレオンはシャンピオン配下の胸甲騎兵をオーストリアの戦線に送ったが、効果は得られなかった。中央と左翼を守るためにナポレオンは112の大砲によりオーストリアへ砲撃を開始し、オーストリアの戦列の穴を引き裂いた。ダヴーの兵士はオーストリアの左翼に進軍し、ナポレオンはマクドナルドの3つの小さな師団を戦列の穴に投入し、長方形の陣形でオーストリア軍中央に進軍させた。この陣形はオーストリアの大砲による攻撃を受けながらも、なんとか中央まで突破したが騎兵がなかったため、決定的な勝利を掴む事は出来なかった。しかしマッセナの部隊が左翼を救援し、右翼ではダブーが拠点を確保し、ヴァグラム方面へと向かいつつあった。カール大公はオーストリアの陣地が完全に破壊されるのは時間の問題だと判断し、午後1時頃退却を命じた。彼の弟のヨハン大公は午後4時に戦場に到着したが、戦況を変えるには既に遅すぎ、ボヘミアに徐々に退却していった。 フランスは2日間に行われた激しい戦闘により消耗しきっていたため、すぐにはオーストリア軍を追撃しなかった。フランス軍が回復した後、オーストリア軍を追撃し、7月中旬にはズノイモで追いついた。7月12日にこの地でカール大公は休戦条約にサインし、休戦協定が調印された。フランスとオーストリアの軍事的衝突は事実上終了したが、3ヶ月後にこの戦争の結果を公式にするための外交交渉が行われた。
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