ヴァグラムの戦いとは? わかりやすく解説

ヴァグラムの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/24 07:30 UTC 版)

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ヴァグラムの戦い

ヴァグラムの戦い
戦争オーストリア戦役ナポレオン戦争
年月日1809年7月5日-7月6日
場所オーストリア東部ウィーン近郊
結果:フランス軍の勝利
交戦勢力
フランス帝国 オーストリア帝国
指導者・指揮官
ナポレオン1世 カール大公
戦力
188,000
野砲 500門
155,000
野砲 450門
損害
死傷 32,500
捕虜 7,000
死傷 40,000
ヴァグラムの戦い。7月6日朝の状況

ヴァグラムの戦い(ヴァグラムのたたかい, 英:Battle of Wagram, 仏:Bataille de Wagram, 1809年7月5日-7月6日[1])は、ナポレオン戦争における戦闘の1つ。ウィーン北東15キロメートルにあるドナウ川北岸の町ヴァグラムの周辺地域で、皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍と、カール大公率いるオーストリア軍とが戦った。ワグラムの戦いとも表記される[2]

フランス軍18万、オーストリア軍15万という大軍同士が激突し、合わせて7万以上の死傷者を出した。戦いはフランス軍が勝利し、オーストリアはシェーンブルンの和約を結んで屈服した。

背景

1809年4月9日、オーストリアはイギリス第五次対仏大同盟を結びフランスへ宣戦した。ナポレオンは速やかに反撃に移り、エックミュールの戦いでカール大公率いるオーストリア軍主力に勝利して、オーストリアの首都ウィーンに入城した。ドナウ川の北岸へ退却した10万のオーストリア軍主力に対し、5月21日-22日、ナポレオンは7万のフランス軍をもって渡河作戦を決行し決戦を挑もうとするが、半渡のところをカール大公の的確な指揮に衝かれて敗北を喫した。

このアスペルン・エスリンクの戦いの後、しばらく膠着状態が続いた。この間、フランス軍にはウジェーヌマクドナルの率いるイタリア王国軍、マルモン軍団、ポニャトフスキの率いるポーランド軍、バイエルン軍が来着して18万の大軍となり、オーストリア軍も15万の兵力を集結させた。そのころチロルでのアンドレアス・ホーファーの蜂起や、ネーデルラントにあるワルヘレン島へのイギリス軍の上陸など背後での動きも活発化し、ナポレオンにもあまり時間の余裕はなかった。ナポレオンは再度カール大公へ決戦を挑んだ。

経過

ナポレオンはアスペルン・エスリンクの戦いでの失敗を繰り返さぬよう周到な計画を練っていた。ロバウ島に集結していたフランス軍は、7月4日の暴風雨の夜をあえて選んで渡河作戦を決行し、対岸からも同時に架橋作業を実施することで迅速に舟橋を構築して、大軍を一気に渡河させた。ただ、このとき参謀長ベルティエは誤って2つの軍団に同じ橋を割り当ててしまい、一時的な遅れが生じた。

オーストリア軍は完全に不意を衝かれ、川岸に展開していた警戒部隊は蹴散らされた。フランス軍は7月5日の昼までにアスペルンからエスリンクの一帯を制圧し、午後には18万の大軍が渡河を完了した。フランス軍は左翼にマッセナ軍団、中央部にベルナドットの率いるザクセン軍団、ウジェーヌ軍団、ウディノ軍団、右翼にダヴー軍団を配置し、20キロメートルにわたる半円陣形を形成した。ナポレオンはヨハン大公が率いるオーストリア軍の別働隊12,500が駆けつける前に勝負をつけたいと考え、7月5日中の攻撃を試みたが、このときは小規模な攻撃にとどまり失敗した。

翌7月6日早朝、戦闘が再開された。最初にオーストリア軍が主導権を握り、フランス軍右翼へ攻撃を仕掛けた。これは陽動作戦で、続いて第3、第6軍団による本格的な攻撃がフランス軍左翼へ向けられた。ベルナドット指揮下のザクセン軍団は後退させられ、さらにブーデ師団が潰走させられてフランス軍の後方連絡線が脅かされた。これに対して、フランス軍ではマッセナ軍団の一部と騎兵が増援に向かい、さらにロバウ島から砲撃を浴びせてオーストリア軍の攻勢を停止させた。

一方、右翼ではダヴー軍団がオーストリア軍を押し返していた。ナポレオンの戦術眼はこの好機を見逃さなかった。オーストリア軍全体の扇の要となっていた中央部へ向けて、マクドナル軍団と近衛軍団に突破攻撃を命じ、マクドナルは指揮下の8,000の兵力をくさび型に編成してオーストリア軍中央部へ銃剣突撃を仕掛けた。ラサール将軍も援軍として駆けつけ、援護突撃を行った。凄惨な戦いが繰り広げられ、オーストリア軍は中央部を突破され、分断された。

午後4時、ヨハン大公の別働隊が戦場に到着した頃には勝敗は決していた。オーストリア軍は死傷者40,000の損害を受け、戦闘能力は残っていたが敗北は明らかであった。一方、フランス軍の損害も死傷32,500、捕虜7,000に及んだ。

影響

7月10日、オーストリアは停戦を申し入れ、12日に停戦協定が成立した。同日、フランス軍では戦功によってマクドナル、ウディノ、マルモンが元帥へ昇進し、ベルティエは(失策は犯したものの)ヴァグラム大公爵に叙せられた。

10月14日、オーストリアはシェーンブルンの和約を結んで屈服した。広大な領土をフランスやバイエルンへ割譲させられ、そのうえ巨額の賠償金を課せられた。こうして1809年におけるオーストリアのナポレオンへの挑戦は失敗に終わった。ナポレオンの帝国は絶頂期を迎える。

ヴァグラムで戦ったオーストリア軍は、旧来の傭兵軍から脱皮しつつあった。アウステルリッツでの屈辱的敗北以来、オーストリアが営々と進めてきた軍制改革によって、革命によって生まれ変わったフランス軍と同様に、国民としての意識を持ち、個人的な名誉や利益のためではなく祖国のために戦う国民軍としての性格を強めていたのである。だが彼らがライプツィヒでの輝かしい勝利を勝ち取るまでには、あと数年の歳月が必要であった。

脚注

  1. ^ 戦いの回廊・ナポレオン執念の勝利 Galerie des Batailles in Ch teau de Versailles”. ライブドアニュース (2013年9月2日). 2020年7月4日閲覧。
  2. ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月21日閲覧。

参考文献

  • エミール・ブカーリ(著), 小牧大介(訳), 『ナポレオンの元帥たち フランス帝国の群雄伝』, 新紀元社 (2001/7), ISBN 4883178862
  • David G. Chandler, Campaigns of Napoleon: The Mind and Method of History's Greatest Soldier, 1973, ISBN 0025236601
  • David G. Chandler, Dictionary of the Napoleonic Wars (Wordsworth Military Library), Wordsworth Editions Ltd, 1999, ISBN 1840222034

ヴァグラムの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:36 UTC 版)

1809年オーストリア戦役」の記事における「ヴァグラムの戦い」の解説

詳細は「ヴァグラムの戦い」を参照 アスペルン・エスリンクの戦い敗北した後、ナポレオンは6週間上計画を立案し再度ドナウ川渡ろうとするまでの間、万一可能性備えたフランスはより多く軍勢大砲連れてきて、次の渡河成功保証するためのより良い防衛手段講じた6月30日から7月初旬にかけてフランスドナウ川もう一度渡ろうとし、188,000名の軍がマルスフェルトを通って行軍したフランスの進軍に対して前哨部隊のノルトマンとヨハン・フォン・クレーナウ(英語版)の師団はすぐに抵抗する事は制限されていた。オーストリアの主軍は8kmほど離れた場所に駐在しており、その中心はヴァグラムというであった渡河成功した後、夜間オーストリア軍退却する事を防ぐ為、ナポレオン全線攻撃命じた。第57戦列歩兵連隊と第10軽歩兵連隊はパルバスドルフ(英語版)というに対して猛烈な攻撃仕掛け迅速にフランスの勝利導こうとした。しかし結局オーストリア軍フランス攻勢防ぎその場を動かなかった。英雄的なオーストリアヴィンセント騎兵隊間断ない攻撃により、第10連隊と第17連隊撤退余儀なくされ、フランスは何も得られ退却したウジェーヌマクドナル左翼対す更なる攻撃では何も得られなかった。ベルドナットの軍による攻撃後で行われたがこちらも失敗終わり右翼のダヴーは夜の暗さのために交戦停止する事を決意した。こうして戦い初日フランスはマルスフェルトで終えたが、これらの努力にも関わらず戦果はほとんど得られなかった。 7月6日カール大公彼の弟のヨハン大公迅速な行軍要求される両翼包囲計画した。この時ヨハン戦場から東に数km地点にいた。ナポレオン計画ではオーストリア左翼への展開はダヴーの第3軍団任せ残りの軍がオーストリア軍押さえつける事を想像していた。コロヴラートの第3軍団支援されクレーナウ第6軍団は2日目午前4時から戦闘開始しフランス左翼粉砕し、後にフランスはアスペルン・エスリンクの両方放棄せざるを得なくなった一方その間部隊の展開夜通し行われたベルナドットはアダークラアという中心要所から出ていくように自身の軍に一方的に命じたが、この動きフランス全軍陣形大きく崩すものであったナポレオン激怒し、この危機的な奪還するために2個師団騎兵によって支援されていたマッセナ軍団送った最初の段階では激し戦いが行われたが、マッセナはモリトールの予備兵力を投入した。この予備兵力は緩やかではあったがアダークラアを全てフランスの手戻したものの、オーストリア激し砲撃反撃によって再度失った。ダヴーの攻撃為の時間を稼ぐためにナポレオンシャンピオン配下胸甲騎兵オーストリア戦線送ったが、効果得られなかった。中央左翼を守るためにナポレオン112大砲によりオーストリア砲撃開始しオーストリア戦列の穴を引き裂いた。ダヴーの兵士オーストリア左翼進軍しナポレオンマクドナルド3つの小さな師団戦列の穴に投入し長方形陣形オーストリア軍中央進軍させた。この陣形オーストリア大砲による攻撃を受けながらも、なんとか中央まで突破した騎兵がなかったため、決定的な勝利を掴む事は出来なかった。しかしマッセナ部隊左翼救援し右翼ではダブー拠点確保し、ヴァグラム方面へと向かいつつあった。カール大公オーストリア陣地が完全に破壊されるのは時間の問題だと判断し午後1時頃退却命じた彼の弟のヨハン大公午後4時戦場到着したが、戦況変えるには既に遅すぎ、ボヘミア徐々に退却していった。 フランス2日間に行われた激し戦闘により消耗しきっていたため、すぐにはオーストリア軍追撃しなかった。フランス軍回復した後、オーストリア軍追撃し7月中旬にはズノイモ追いついた。7月12日にこの地でカール大公休戦条約サインし休戦協定調印された。フランスオーストリアの軍事衝突事実上終了したが、3ヶ月後にこの戦争の結果を公式にするための外交交渉が行われた。

※この「ヴァグラムの戦い」の解説は、「1809年オーストリア戦役」の解説の一部です。
「ヴァグラムの戦い」を含む「1809年オーストリア戦役」の記事については、「1809年オーストリア戦役」の概要を参照ください。

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