マリア・ヨーゼファ・フォン・リヒテンシュタインとは? わかりやすく解説

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マリア・ヨーゼファ・フォン・リヒテンシュタイン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:39 UTC 版)

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マリア・ヨーゼファ・フォン・リヒテンシュタイン
Maria Josepha von Liechtenstein
エステルハージ・デ・ガランタ侯爵夫人マリア・ヨーゼファ・ヘルメンギルデ、エリザベート・ヴィジェ=ルブラン画、1793年

出生 (1768-04-13) 1768年4月13日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーン
死去 (1845-08-08) 1845年8月8日(77歳没)
ヒュッテルドルフ
配偶者 エステルハージ・デ・ガランタニコラウス(2世)
子女 パウル(3世)・アントン
マリア・レオポルディーナ
家名 リヒテンシュタイン家
父親 リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ1世
母親 レオポルディーネ・フォン・シュテルンベルク
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マリア・ヨーゼファ・ヘルメンギルデ・フォン・ウント・ツー・リヒテンシュタインMaria Josepha Hermengilde von und zu Liechtenstein, 1768年4月13日 - 1845年8月8日)は、リヒテンシュタイン家の侯女で、ハンガリー貴族のエステルハージ・デ・ガランタニコラウス(2世)の妻。

生涯

リヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ1世とその妻レオポルディーネ・フォン・シュテルンベルクの間の末娘として生まれた。1783年9月15日にウィーンにおいて、エステルハージ家の嗣子であるニコラウス(2世)と結婚した。夫は1809年のヴァグラムの戦いの直後、フランス皇帝ナポレオン1世からハンガリー王位に就くよう打診されたが、ハプスブルク家に対する忠誠を守ってこの申し出を拒否した。

マリア・ヨーゼファ・ヘルメンギルデ、フリードリヒ・エーレンハインツ画、1776年

マリア・ヨーゼファ・ヘルメンギルデは夫とともに文芸の庇護者として知られ、特に作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンパトロンとして有名だった。侯妃は1796年から1802年にかけての6年間、ハイドンに自分の聖名祝日(9月8日の聖母誕生祭)のためのミサ曲を毎年1曲ずつ作らせた。『戦時のミサ』(1796年)、『オフィダの聖ベルナルドの讃美のミサ』(ハイリッヒ・ミサ 1796年)、ネルソン・ミサ(1797年)、テレジア・ミサ(1798年)、天地創造ミサ(1801年)、ハルモニー・ミサ(1802年)の6曲である。

子女

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