イタリア、ダルマチア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:36 UTC 版)
「1809年オーストリア戦役」の記事における「イタリア、ダルマチア」の解説
詳細は「ダルマチア戦役」を参照 イタリアではヨハン大公率いるオーストリア軍5万がナポレオンの継息子のウジェーヌ・ド・ボアルネ率いる37,000のフランス軍に立ち向かった。オーストリアは4月にサチーレの戦い(英語版)で数度のフランスの攻勢を撃退し、その結果ウジェーヌはヴェローナとアディジェ川まで退却した。しかしバイエルンにおけるカール大公の初戦の敗北を救援する必要があったためイタリアにいるオーストリア軍は主軍に呼び戻された。ヴァグラムの戦いまでにウジェーヌはナポレオンの主軍と合流した。 ダルマチアでは名目上ウジェーヌの指揮下のマルモンがストイチェヴィッチ将軍と交戦していた。マルモンは4月30日に山岳への攻勢を開始したが、グレンツ歩兵(英語版)に撃退された。しかしマルモンはウジェーヌのように戦闘のペースを指示する事で初めの戦闘の妨げとなる事をしなかった。彼は攻勢を撤回し、ヴァグラムのナポレオンと合流した。
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