フランスの進軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/09 03:15 UTC 版)
「オスウィーゴ砦の戦い (1756年)」の記事における「フランスの進軍」の解説
7月16日にカリヨンを経ったモンカルムは、レビ伯フランソワ=ガストン・ド・レビの指揮の下、3日後にモントリオールに戻った。モンカルムがフロンテナック砦へ向けて発った2日後に、フランス軍は大勢のインディアンを集結させていた。ラ・サル連隊(英語版)、ギュイエンヌ連隊(英語版)、ベアルヌ連隊(英語版)、海兵隊の大隊と植民地の民兵が集まるのと同時に、インディアンたちも、ヌーベルフランスの各地域から250人ほどが来ており、軍全体の規模は、ざっと3,000人だった。ヴォードルイユ総督の弟であるフランソワ=ピエール・ド・リゴーが、8月4日に本隊が出発する前に、サケット港でヴィリエの軍に合流する先発隊700人を率いて発った。先発隊は、夜の間に、現在のウルフ島まで行軍を続け、夜にサケット港に渡るため、昼間をそこで過ごした。8月8日までにはすべての軍が合流し、翌9日にオスウィーゴに向けて発った。 8月9日、ヴォードルイユとヴィリエの軍が陸上をオスウィーゴに向けて進んでいる間、モンカルムと他の兵はバトーでオンタリオ湖岸に近づき、8月10日の未明、オンタリオ砦の東約2マイル(3キロ)の地点に上陸した。彼らの暗闇にまぎれての行動は成功し、朝になって、小さな巡視船がモンカルム一行を見つけるまで、イギリス軍は何も気づかなかった。イギリス軍が差し向けた大型船は、フランスの野砲により追い払われた。
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