フランスの退却
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:52 UTC 版)
「デュケーヌ砦の戦い」の記事における「フランスの退却」の解説
フランスは、最初のイギリスの攻撃こそ撃退したが、リグネリは、600人程度の軍では、その10倍もの人数のイギリス軍相手にはデュケーヌ砦を守れないことを知った。フランス軍は11月24日まではデュケーヌに留まったが、リグネリ軍はその夜砦に火をつけ、暗闇にまぎれて去り、部隊をボートに乗せ、火にまぎれてオハイオ川にまで退いた。その夜、進軍中のフォーブズ率いるイギリス軍は、先住民の斥候から、砦の近くから煙が上がっていると言う情報を得た。フォーブズは調査のため騎兵隊を派遣し、残る士官や兵もそれに続いた。翌25日、イギリス軍が、火がくすぶり続けている砦の跡地に進軍してきた時、彼らはぞっとするものを見せつけられることになった。先住民たちが高地連隊兵の遺体から首を切り取り、その首を、砦の天辺の尖った支柱に突き刺していたのだ。兵たちのキルトがその下に吊るしてあった。 イギリス軍は、デュケーヌ砦を再建し、その名前を、この、戦略上有効な地の攻略を命じたウィリアム・ピットにちなんでピット砦とした。のちにダンモア砦と改名されたが、独立戦争の初期に元の名称に戻され、その後、この砦の周辺の町はピッツバーグと呼ばれるようになった。 また、元々のデュケーヌという名は、ヌーベルフランスの総督にちなむものである。
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