フランスの降伏
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(1940年5月10日 ドイツ軍の攻撃) (1940年6月14日 パリ陥落) (1940年6月22日 ドイツとの休戦協定成立)も参照 1940年6月21日、フランス共和国は電撃戦の混乱から立ち直れないままナチス・ドイツに降伏した。 6月22日、新たに成立したペタン元帥率いるヴィシー政府はドイツとの間に休戦協定を締結した。この協定の中で要点の一つに挙がったのが、この時点でほぼ無傷で残っていたフランス海軍の今後の処遇であった。協定第8条ではフランスの特定の港(第2条で大西洋沿岸はドイツ占領下になると定められたため、場所は事実上北アフリカか、地中海のトゥーロンに限られる)へ集められ武装解除されると定められていたが、この艦隊がその後どうなるかがこの時点では不明確なままだった。 フランス海軍は司令官フランソワ・ダルラン提督の決して軍艦をドイツには引き渡さないとの決意の下、未成艦も含め動ける艦を全てイギリスと北アフリカに脱出させていた。パリ開城2日前の6月12日、英仏統合会議においても、もしドイツがフランス艦隊を捕獲しようとした場合は自沈することを確認していた。ヴィシー政府もこの認識を引き継いではいたが、一方で今やドイツとイギリス、双方がフランス艦隊の接収を目論んでいるという現状も認識していた。 この時点でフランスは戦争から脱落していた。確かにパリ陥落の翌日、シャルル・ド・ゴールがロンドンからラジオで徹底抗戦を訴えてはいたが、フランスの世論は第一次世界大戦のトラウマから厭戦に傾いていた。20数年前の悪夢、悲惨な塹壕戦と膨大な犠牲の再来を回避できるなら、たとえ屈辱的な条件の下であろうと人々は停戦を望んだのだ。ヴィシー政府を率いるヴェルダンの英雄ペタンにとってもそれは一緒だった。この時点でペタンが目標としたのはドイツからの対英参戦要求の断固拒否であり、次にドイツによるフランス占領の内容を少しでも自国に有利なものにすることだった。ドイツの思惑が明白なこの状況下では、艦隊はその政治交渉で彼が使える強力なカードだった。そしてペタンは休戦協定においてフランスの局外中立、非占領地域におけるヴィシー政府の主権を、その艦隊をイギリスへ引き渡さないという確約の対価としてドイツから確保することに成功するのである。 一方、いまや英本土も戦場となりかねない状況の中で、イギリスはフランス艦隊が無傷でドイツ軍の手に落ちるリスクを放置してはおかなかった。 (1940年7月3日 メルセルケビール海戦) (1940年9月23日 ダカール沖海戦) 7月3日、イギリスはカタパルト作戦を発動し、ポーツマス、プリマス、そしてアレクサンドリアに脱出していたフランス海軍の艦艇を接収した。さらにアルジェリアのメルセルケビールに艦隊を派遣し、在泊艦隊に「味方に加わる」「降伏して接収される」「武装解除して無力化される」「自沈する」または「撃沈される」かのどれかを選ぶよう迫った。この戦いの結果フランス世論は反英に傾き、ヴィシー政府はイギリスとの国交を断絶。一時は宣戦布告すら検討される状況になった。 9月23日、イギリス軍は西アフリカの要港ダカールを占領しようとした。しかし同地のフランス軍はもはやイギリス軍を味方とは見なさず激しく抵抗し、攻撃を撃退した。 ヒトラーは予想以上のフランス軍の健闘に態度を軟化させ、海軍の処遇についても条件を緩和し、一部艦艇の武装解除のみに留めて艦隊の存続を許した。しかし一方で、北アフリカのフランス植民地が連合国軍の手に落ちるリスクを無視できなくなったことも今や明らかだった。
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フランスの降伏
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「ルイブールの戦い (1758年)」の記事における「フランスの降伏」の解説
7月26日、フランスは降伏した。激しい戦いの後で、フランスは、ミノルカ島の海戦のように名誉降伏が与えられるのを期待していたが、アマーストはそれを拒否した。恐らく、オスウィーゴの戦いや、フォート・ウィリアム・ヘンリーの戦いの降伏の際の、フランスの同盟者である先住民の残虐な仕打ちが、彼の脳裏に生々しく刻まれているせいではないかと思われた。フランス軍は、武器と、備品と、そして旗を引き渡すよう命じられた。このことはドリュクールを憤慨させたが、ルイブールの住民が、戦闘が終わることで安全に生活できるのであればと、不承不承降伏を受け入れた。カンビスの連隊は降伏を受け入れるのを拒み、銃剣を壊して、連隊旗を燃やした。それらがイギリス軍の手に渡るよりは、こうした方がましだと考えたからだ。 ルイブールの陥落は、フレンチ・インディアン戦争の中でも大きな意味を持つものだった。イギリスは、翌1759年に、カナダの運命を決するケベック侵攻に向け、セントローレンス川を制したのである。ルイブールでのイギリス勝利の知らせは、デュケーヌ砦とフロンテナックの陥落のすぐ後にもたらされ、この勝利が、その後のイギリス軍の戦闘に急激な変化を与えることになった。 ルイブール陥落と時を同じくして、セント・ジョン島も降伏した。また、デュケーヌは、この年の11月にニューイングランド植民地軍に占領され、ピットにちなんでピッツバーグと改称されることになる。
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