フランスの遺言書
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「アンドレイ・マキーヌ」の記事における「フランスの遺言書」の解説
1995年にメルキュール・ド・フランス出版社から刊行された代表作『フランスの遺言書』は、祖母シャルロットとともに過ごした子ども時代の思い出に基づく自伝的小説であり、本書は同年にフランスで最も権威のある5つの賞(ゴンクール賞、フェミナ賞、メディシス賞、ルノードー賞、アンテラリエ賞)のうち、ゴンクール賞とメディシス賞、および高校生のゴンクール賞を同時に受賞した(なお、2000年に水声社から刊行された邦訳の訳者星埜守之は2001年に小西国際交流財団の第8回日仏翻訳文学賞を受賞した)。 マキーヌは「遺言書」の意味について、祖母シャルロットからフランス語とフランスの文化、すなわち「物理的な遺産ではなく知的な遺産」を受け継いだと説明し、したがって彼にとってフランス語は(母語のロシア語に対して)「祖母語」であるという。祖母が彼に語ったのは主に第二帝政期(ナポレオン3世時代)からベル・エポック(世紀末から第一次大戦)にかけてのフランスであり、現実のフランスではなく、彼にとっての「フランスの精神」であり、彼の小説は「ロシアというスクリーンに映し出されたフランスの歴史である」と表現する。 また、フランス語で書く理由については、「あまりにも親しんだチェーホフやトルストイの亡霊」、すなわち「影響」から逃れるためとする一方、結局のところ、どのような言語であれ、「たった一つの詩的言語の方言にすぎない」、同じフランス語でも「フランシス・カルコ(フランス語版)の言語とプルーストの言語の違いは、ロシア語の話し言葉とフランス語の話し言葉の違いよりずっと大きい」、重要なのは作家のヴィジョンであると説明している。 2011年にマキーヌはもう一つ別の偽名を使っていたことを明らかにした。ガブリエル・オスモンド(Gabriel Osmonde)という筆名で2001年からすでに小説を4作発表していたが姿を見せず、経験豊かな作家であることは明らかだったため、ピエール=ジャン・レミー(フランス語版)、ミシェル・デオン(フランス語版)、ディディエ・ヴァン・コーヴラール、あるいはナンシー・ヒューストンの偽名ではないかと噂されていた。2011年に4作目の『アルテルネサンス(別の誕生)』が出版されたのを機に『フィガロ』紙が取材を申し入れたところ、作家が「思いがけず」これに応じた。彼は偽名を使ったことについて、すでに名を成した作家として活動を続けるより、「別の人間として世間の喧騒から離れて」書きたいと思ったと説明し、また、実名を明かしたことについては、『アルテルネサンス』を書き終えたときに「義務を果たした」と感じたので、これが「虚構ではなく」彼が「これまで歩んできた道のり」であることを説明する必要があったと語った。 2016年3月3日にアカデミー・フランセーズの会員に選出された。マキーヌと同じく母語ではないフランス語で執筆したアルジェリアの作家アシア・ジェバールの後任である。佩剣にはキリル文字とフランス語のアルファベットによる「F」の文字が刻まれている。
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