フランスの農奴制におけるマンモルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/21 21:06 UTC 版)
「死手譲渡」の記事における「フランスの農奴制におけるマンモルト」の解説
フランスにおいては、「mainmorte」(しばしば「mortemain」とも)という語は、前述の死手財産を指すのに用いられるだけでなく、中世フランスにおける農奴に課された無能力(財産遺贈不能またはマンモルト)を指すのにも用いられる。 農奴制におけるマンモルトの目的は、財産が荘園外の者へ譲渡されることの防止であった。すなわち、生涯にわたって、農奴はその私有財産を自由に享有することとなった。また、農奴は、領主の許可を得ればマンス(manse:農地を含む財産の一単位)を処分することはできたが、遺言をなす権利を奪われ、その死によってその財産は「死せる農奴は生けるその領主を捕らえる」との原則により領主に返還された。 「マンモルト」との語は、農奴がその死後に遺産を残された家族に移転することができないことを実際に反映した象徴であった。 そこで、マンモルトの厳格さを回避するために精巧な仕組みが考案された。société ou communauté taisibleである。まず、家族が、父母と子(婚姻後も)から構成される事実上の会社(société de fait)を組成する。彼らは、1つ屋根の下で、同じ鍋料理とパンを食べ、共に生活する。そうすると、父または母が死亡したとき、マンモルトを行使する根拠がなかったのである。この共同体は存続して機能し、死者の持分は生者のそれを増大させた。この会社が完全に解散したときしか、領主はそのマンモルトの権利を行使することができなかった。しかしながら、この術策が認められるには、2つの条件があった。相続人は死者と同様に農奴であること、および、その全員が彼の死に至るまで彼と共に当該会社に残存していたことである。1人でも欠ければ当該会社が終了するのに十分であった。 12世紀以降、マンモルトは緩和された。多くの地域において、領主は、動産である品物1個もしくは家畜1頭を取得するか(最良財産税:droit du meilleur catel)、または相続人から特別の租税の支払を受けた。17世紀以降、フランスにおいては、フランシュ=コンテを除き、マンモルトはほぼ消滅した。フランシュ=コンテは、ルイ14世の下でフランスの一部であったが、ここでは、サン=クロード修道院が、フランス革命に至るまで州内の農奴に対してマンモルトの権利を有していた。マンモルトは、1790年にルイ16世の勅令によって正式に廃止された。
※この「フランスの農奴制におけるマンモルト」の解説は、「死手譲渡」の解説の一部です。
「フランスの農奴制におけるマンモルト」を含む「死手譲渡」の記事については、「死手譲渡」の概要を参照ください。
- フランスの農奴制におけるマンモルトのページへのリンク