残された家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 08:47 UTC 版)
ミヨシの家では夫の茂、親戚のほか集落総出で100人以上が捜索に当たった。裏山、川べり、海岸、くまなく探し、佐渡汽船の乗船名簿も一枚一枚丹念に調べた。やはり、手がかりは得られなかった。佐渡ではミヨシ・ひとみの母子は酒好きの茂から逃げたのではないかという噂が広まった。父親自身も妹に、ひとみには准看護師の資格があるので母と二人で暮らしているのではないかと語ったことがある。2人は自殺したのではないかという風評も流れた。次女は身の回りの世話をしてくれる親戚のもとで暮らすことになり、茂はひとりで妻と長女を待った。残された家族は大事な家族を奪われ、離散させられたほかに、長い間、いわれのない悪評と疑惑のなかにさらされたのである。
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残された家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 04:47 UTC 版)
松木薫がスペインで行方不明になったあと、父親は何度も警察や外務省にかけあったが、いくら相談しても納得のいく答えは返ってこなかった。父は息子の顔写真を持って「あなたが、スペインにいらしたとき、この写真の男性と、どこかで会いませんでしたか? 見かけませんでしたか?」とスペイン留学経験者の家を何軒も訪ね回った。時には詳しい住所もわからないまま自転車で探し回り、時には熊本県外にも出かけ、その軒数は薫の弟をともなって出かけたものだけでも10軒を下らなかった。 薫の両親はスペインに関するニュースに対し異様に敏感になった。新聞を読んでは心配し、テレビでスペインのことを放送していると画面に食い入るように見つめていた。街ゆく人びとのようすが映し出されると、弟は「お前は目がよいのだからよく視るように」と頼まれた。弟は中学校の先生に航空便の書き方を教わり、薫が滞在しているはずの宿舎に何度も手紙を書き送った。 やがて父親は心痛のあまり認知障害の症状が現れ、弟のことを「薫」と呼ぶようになった。さらに、毎日のようにタクシーを呼び、警察を訪ねて薫の捜索を必死に頼んだあと旧人・知人宅をまわるという、タクシーを使っての徘徊を繰り返す生活が始まった。
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残された家族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 01:04 UTC 版)
小栗は遣米使節目付として渡米する直前、従妹の鉞子(よきこ、父・忠高の義弟日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男の忠道を養子に迎えていたが、忠道も翌日に高崎で斬首された。死の直前に母のくに子、妻の道子、養女の鉞子を家臣及び村民からなる従者と共に、かねてから面識があった会津藩の横山常守を頼り、会津に向かって脱出させた。道子は身重の体であり、善光寺参りに身を扮し、急峻な山道である悪路越えの逃避行であった。その後、一行は小栗忠高がかつて懇意にしていた新潟の紙問屋・藤井忠太郎(市島謙吉の親戚)を頼ったのち、閏4月29日には会津に到着し、松平容保の計らいにより道子らは会津藩の野戦病院に収容され、6月10日に道子は女児を出産、国子と命名された。 一行は翌明治2年(1869年)春まで会津に留まり、東京へと戻った。帰るべき場所がない小栗の家族の世話をしたのは、かつての小栗家の奉公人であり、小栗に恩義を感じている三野村利左衛門であった。三野村は日本橋浜町の別邸に小栗の家族を匿い、明治10年(1877年)に没するまで終生、小栗の家族の面倒を見続けた。その間、小栗家は忠順の遺児・国子が成人するまで、駒井朝温の三男で忠道の弟である忠祥が継いだ。三野村利左衛門の没後も、三野村家が母子の面倒を見ていたが、明治18年(1885年)に道子が没すると、国子は親族である大隈重信に引き取られた。大隈の勧めにより矢野龍渓の弟・貞雄を婿に迎え、小栗家を再興した。
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