小栗忠順 おぐり ただまさ
東京生まれ、幕臣。父は新潟奉行小栗忠高。安政6年(1859)目付となり、翌万延元年(1860)日米修好通商条約批准書交換使節の一員として渡米した。帰国後は勘定奉行、軍艦奉行等を務め、横須賀製鉄所建設、関税率改訂交渉、軍制改革などの任にあたり、動乱期の困難な幕府財政を支えた。戊辰戦争に際し強硬な抗戦論を主張して罷免され、所領地の上州群馬郡権田村に隠棲したが、新政府軍により捕縛、処刑された。
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小栗忠順
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小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。
注釈
- ^ 旧高旧領取調帳データベースによると、小栗上野介名義の旧領は約3,334石。
- ^ 現在の東京YWCA会館。
- ^ この時、ポーハタン号の随行艦である咸臨丸には、軍艦奉行・木村芥舟が司令官、勝海舟が艦長として乗っており、木村の従者には福澤諭吉がいた。
- ^ しかし、結局ロシア艦を退去させるために英国海軍の圧力が必要となった。
- ^ 1メキシコドル=0.75両。一両の価値は一文と一両の価値参照。
- ^ 全施設が完成したのは1871年だが、江戸開城直前には第一船渠は完成し、第一、第二船台の工事進捗率はそれぞれ8割、6割であり、一部完成した施設では40馬力の小汽船が製造されていた[22]。
- ^ 特に四斤山砲・スプリングフィールド銃が主たる対象であった。
- ^ 慶喜が抗戦の意思を捨てて、絶対恭順の姿勢を見せるのは2月以降である。
- ^ なお、この件に関しては上野国狩宿関所役人・片山保左衛門が慶応4年(1868年)閏4月の日記に「小栗上野介如何様之儀有候哉」と記している[50]。
- ^ 小栗の斬首の前に鎮撫総督本営から助命の沙汰があったが、現地に沙汰書が届いたのは斬首の翌日であった、という説もある[51][52]。
- ^ ただし、本文中には必ずしも信ずるには足らずと註がある。
出典
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- ^ 早川 13頁
- ^ 普門院
- ^ 小川 696頁
- ^ 村上 179-188頁
- ^ https://www.archives.pref.gunma.jp/course/course-1/
- ^ 児島 224頁 但し戦備のためではない。
- ^ 川口 89頁-158頁
- ^ 司馬 1989, p. 26.
- ^ 小野寺 151頁
- ^ 市川、村上 56頁、村上265頁
- ^ a b 上毛新聞2017年(平成29年)12月13日社会面「幕臣小栗上野介に新説 山鹿流兵学から影響」
- ^ a b 小栗上野介顕彰会機関誌たつなみ第42号(平成29年・2017)窪田清音の学問と門弟小栗上野介の行動
- ^ 市川、村上 58頁
- ^ 上州路 16頁
- ^ 小栗上野介日記及び家計簿~群馬県生涯学習センター
- ^ 尾佐竹 幕末遣外使節物語 73頁
- ^ 「幕末開明の人・小栗上野介 米国から持ち帰ったねじ~ファスニングジャーナル
- ^ リスク対策.com再説:幕末の幕府を支えた小栗上野介忠順(2021年11月19日閲覧)
- ^ 横山 109-125頁、田辺1、177-185頁
- ^ 大松、109頁
- ^ 武田 119頁
- ^ 高村 34-35頁
- ^ 瀧澤ほか 258頁
- ^ 田辺2、237-238頁
- ^ 坂本 311-312頁、344頁。
- ^ 坂本、335-357頁
- ^ 小野寺 127頁
- ^ 平間 48-51頁
- ^ 坂本 347-372頁
- ^ 山本 95頁、及び横須賀製鉄所の人びと 参照
- ^ “市指定第49号 幕末の洋式小銃”. 西東京市. 2017年3月6日閲覧。
- ^ 保谷徹 幕府の米国式施条銃生産について 東京大学史料編纂所研究紀要第11号 2001.3 36-52頁
- ^ 大松 69-82頁
- ^ 武田 127-129頁
- ^ 石井 増訂 明治維新の国際的環境 710-713頁 洞410-412頁
- ^ 海を越えた日本人名辞典 197頁
- ^ 坂本 413-425頁など
- ^ 村上 106-121頁
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- ^ 木村知治、土方伯 398-399頁
- ^ 森 192頁
- ^ 児島 207-211頁
- ^ 安藤優一郎 「幕末維新」の不都合な真実 119-124頁
- ^ 小栗日記 69頁
- ^ 高橋敏 125頁
- ^ 三野村 52頁、倉渕村 239-240頁
- ^ 倉渕村 240頁、加来 104頁、早川15-16頁
- ^ 村上 176頁。権田村・小高用水
- ^ 片山 121頁
- ^ 山田 184頁
- ^ 畠山 247-248頁
- ^ 「小栗上野介、殺害直後の古文書発見」2007年3月~東京新聞
- ^ 村上、190-206頁
- ^ 小栗上野介の子孫『大隈侯一言一行』市島謙吉、 (早稲田大学出版部, 1922)
- ^ 村上、209頁
- ^ 村松、富田、246-248頁
- ^ 村上、211、218-219頁
- ^ [1]、[2]
- ^ 尾佐竹猛 112頁[注釈 11]。
- ^ 小野寺 153頁。
- ^ 広辞苑第六版 「商社」1379頁。
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- ^ 東京富士美術館公式サイト収蔵品。
- ^ ペリリン&オグリン公式HP(2013年8月15日時点のアーカイブ)
- ^ “道の駅 くらぶち小栗の里の地図”. Mapion. 2018年12月12日閲覧。
- ^ 家系図~近現代・系図ワールド
- ^ 森 193頁。
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- ^ 「青天を衝け」でもっと見たかった…小栗忠順が日本近代化に果たしたすごい功績(2021年11月14日閲覧)
- ^ 広瀬 213頁、山本 108頁
- ^ [3]
- ^ 小川 1163頁
- ^ 小板橋 245頁
- ^ 三野村 9頁。
- ^ 三野村 16-17頁。
- ^ 渋沢栄一を慌てさせた情報通で、勝海舟の“ライバル” ──幕吏でありながら確かな商才で一目置かれた「知られざる偉人」小栗忠順(2021年11月9日閲覧)
- ^ 柳営補任、小川 695-696頁より作成。
- ^ 柳営補任 三巻 229頁
- ^ 柳営補任 一巻 294頁
- ^ 小川 688-689頁
- ^ 小栗日記 72-73頁
小栗忠順(おぐり ただまさ)
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「若さま同心徳川竜之助シリーズ」の記事における「小栗忠順(おぐり ただまさ)」の解説
小栗豊後守忠順(おぐりぶんごのかみただまさ)。南町奉行と勘定奉行を兼務していたが、現在は南町奉行の職から離れている。竜之助が田安徳川家の若と知っているのは奉行所の関係者の中では小栗と井上のみである。
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小栗忠順(おぐり ただまさ)
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「ちるらん 新撰組鎮魂歌」の記事における「小栗忠順(おぐり ただまさ)」の解説
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