徳川埋蔵金
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徳川埋蔵金(とくがわまいぞうきん)は、江戸時代末期の1867年に江戸幕府が大政奉還に際し、密かに埋蔵したとされる幕府再興のための軍資金である。埋蔵金は金塊あるいは貨幣とされ、現在も個人やマスメディア等により発掘が試みられているが、発見には至っていない。
- ^ a b 知的発見!探検隊 2012, p. 6.
- ^ 並木伸一郎 2017, p. 80.
- ^ 知的発見!探検隊 2012, p. 8.
- ^ 知的発見!探検隊 2012, p. 9.
- ^ JTBパブリッシング 2016, p. 37.
- ^ 日本博学倶楽部 2005, p. 29.
- ^ 慶長(1607年)・元和(1623年)・寛永(1638年)と将軍の代替わり毎に、三度も建て直された江戸幕府の、将軍の権威の象徴でもあった江戸城天守閣は、4代将軍家綱の治政期の1657年(明暦3年)に発生した明暦の大火で江戸の街と共に消失したのち、幕閣の重鎮であった保科正之の意見により、資金を市街の復興に充てるとして再建されることは無かった。これも天守を建てる余剰な財源が無かったため、とされている。すなわち江戸幕府の象徴たる江戸城天守を再建する資金すらも、4代将軍の時点で既に尽きていた。
- ^ 当初は日本各地の天領(幕府直轄地)であった各地の鉱山からの収入も見込まれたが、佐渡金山などの各鉱山は江戸初期以降、急速に枯渇し、生産量すなわち幕府の収入は激減した。新しい鉱山技術を導入するなどの対策も行われたが、幕府の重要な財源として当てにされていたほどに回復することは無かった。
- ^ 知的発見!探検隊 2012, p. 5.
- ^ この財政難は、明治新政府によって貨幣制度が改められ、円が導入されることによって、ようやく解消された。
- ^ 一例として、小栗は横須賀製鉄所建設のための大金をレオンス・ヴェルニーに委ねている。ヴェルニーは、小栗の依頼に応え横須賀製鉄所、観音崎灯台、走水水源地等を整備した後、余剰となった金を”明治政府に返還”している。歴史の謎を探る会 (2008). 幕末・維新の日本史が2時間でわかる本 やっぱり激動の25年が一番おもしろい!. 河出書房. p. 172. ISBN 9784309497020
- ^ 飯田泰之 & 春日太一 2014, p. 150.
- ^ 鈴木かほる 2007, p. 93.
- ^ 辻岡大介 & 堀切知子 2006, p. 80.
- ^ TBS徳川埋蔵金ライブに向けて。ヘルメットをかぶった経済番組をご一緒に。第1回 徳川埋蔵金番組企画書、ほぼ日刊イトイ新聞、1999年12月2日。
- ^ a b c 糸井重里 2004, p. 231.
- ^ TBS「バラエティーニュース キミハ・ブレイク」(インターネットアーカイブのキャッシュ)
- ^ ヘルメットをかぶった経済番組をご一緒に、ほぼ日刊イトイ新聞 - 2022年3月7日閲覧。
- ^ 糸井重里 2004, pp. 231–232.
- ^ 10月14日(火) よる7時56分 篤姫は知っていた!徳川埋蔵金大発掘!決着の時!!SMAP香取慎吾が「埋蔵金発掘隊長」となって世紀の大発掘に挑む!、MBS - 2022年3月7日閲覧。
- ^ “林修の歴史ミステリー 徳川家260年最大の謎 隠された財宝3000億円徹底解明スペシャル”. TBSテレビ. 2017年9月19日閲覧。
- ^ “林修の歴史ミステリー 徳川家260年最大の謎 3000億円埋蔵金大発掘 最終決戦スペシャル”. TBSテレビ. 2017年9月19日閲覧。
- ^ 山崎和邦 2008, p. 94.
徳川埋蔵金
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「あなたの街の都市伝鬼!」の記事における「徳川埋蔵金」の解説
赤城山に埋まっている箱。漆塗りで徳川家の家紋が彫り抜かれている。人々の望みを好き勝手に反映し、中には箱を開けた人物の望むものが入っている。総璃を助けたいオーナーが開け、中に入っていた本は出雲に寄稿された。込められた力が大きすぎて自我は構築できなかったらしい。
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