江川英武とは? わかりやすく解説

江川英武

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/19 05:49 UTC 版)

江川 英武(えがわ ひでたけ、嘉永6年4月5日1853年5月12日) - 昭和8年(1933年10月2日)は幕末期の韮山代官、明治期の韮山県知事・役人・教育者である。通称は籌之助、後に太郎左衛門。号は春緑。妻・勢以子は伊丹重賢の娘[1]。子に法学者の江川英文がいる。また、娘婿に山田三良辰野隆山岡慎一がいる。

来歴

江川英龍(坦庵)の五男として伊豆国田方郡韮山(現・静岡県伊豆の国市)に生まれる。安政2年(1855年)に父が亡くなり、家督は兄の江川英敏が継いだが、7年後の文久2年(1862年)に兄も若くして亡くなったため、英武がわずか10歳にして家督を継承して江川家第38代当主・韮山代官となり、江川太郎左衛門を名乗った。その後、鉄砲方や講武所教授方にも任命された。

慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発した際には、早々に明治政府側に恭順の意を示したため旧領を安堵され、明治2年(1869年)には韮山県の知事となった。明治4年(1871年)、兵部省の命を受け、岩倉使節団と共に留学生として渡米する。約8年の留学の後、明治12年(1879年)に帰国し、内務省大蔵省に出仕した。明治19年(1886年)、町村立伊豆学校(現・静岡県立韮山高等学校)の校長に就任。学校では英語教育と柔道教育(富田常次郎を講師として招聘)に力を入れたが、経営難から生徒が減少し、数年後に校長職を辞して東京に移った[2]。又、第1回衆議院議員総選挙に静岡県第7区(駿東郡田方郡など)から無所属で出馬し306票を獲得したが落選し、続く第2回衆議院議員総選挙にも同選挙区から立候補したが、最下位得票で落選した。

昭和8年(1933年)、神奈川県三浦郡葉山町において死去。享年81。

脚注

  1. ^ 戸羽山瀚 編『江川坦庵全集 上巻』江川坦庵全集刊行会、1954年、p.27。
  2. ^ 江川英武と伊豆学校 - 韮山高等学校同窓会メールマガジン

参考文献

  • 工藤雄一郎『徳川幕臣人名辞典』(2010年、東京堂出版) 111頁

江川英武

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江川太郎左衛門」の記事における「江川英武」の解説

38当主1853年 - 1933年。号は春緑。英龍の五男。明治維新のときの当主廃藩置県後韮山県令となるが、まもなく岩倉使節団随行そのまま留学その後地域教育尽くす。

※この「江川英武」の解説は、「江川太郎左衛門」の解説の一部です。
「江川英武」を含む「江川太郎左衛門」の記事については、「江川太郎左衛門」の概要を参照ください。

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