江川英敏
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ジョン万次郎撮影の江川英敏
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時代 | 江戸時代末期(幕末) |
生誕 | 天保10年5月9日(1839年6月19日)[1] |
死没 | 文久2年8月15日(1862年9月8日)[2] |
別名 | 幼名:保之丞、通称:太郎左衛門 |
戒名 | 聰達院殿英敏日惠居士 |
幕府 | 江戸幕府韮山代官 |
氏族 | 源姓江川氏 |
父母 | 父:江川英龍 |
兄弟 | 英敏、英武、貞子(石川成章室)、英子(木戸孝允養女・河瀬真孝室)、他 |
子 | 養子:英武 |
江川 英敏(えがわ ひでとし)は、江戸時代末期の旗本で、伊豆韮山代官である。第37代江川家当主。
経歴
天保10年(1839年)、第36代当主・江川英龍の三男として生まれる。安政2年(1855年)に父が死去した(2人の兄は既に早世していた)ため、家督を継いで第37代当主となり太郎左衛門を称した。
文久元年(1861年)には常陸国鹿島郡の日川砂漠開拓が難航していた柳川宗左衛門秀勝が教えを乞いに来た為これを指導。さらに八丈島での開墾経験がある農民らを招聘してやりこれを助けた。また生前に父が進めていた農兵育成・反射炉の完成・爆裂砲弾の作成などを次々と推し進めたが、家督相続から7年後の文久2年(1862年)に夭折した。享年24。継嗣がなく、末弟の江川英武が養子として跡を継いだ。
脚注
関連項目
江川英敏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 04:20 UTC 版)
37代当主、1839年 - 1862年。英龍の三男。父の事業を継いで反射炉の完成、農兵隊の編成など行うが若くして病死。
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