日本による小笠原開拓開始に伴う影響
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「小笠原諸島の自然」の記事における「日本による小笠原開拓開始に伴う影響」の解説
1862年には韮山代官所の江川英敏の移民募集に応じた八丈島島民38名と幕臣らが父島に上陸し、日本人として初の小笠原移民となったが、翌1863年にはいったん小笠原から引き揚げた。1876年(明治9年)、日本政府は小笠原群島の領有を宣言し、小笠原群島は内務省の管轄となり再び開発が始まった。 明治の小笠原群島開発では、まず父島ではコーヒー栽培が行われた。しかし台風の被害によりコーヒー栽培は下火となり、続いてサトウキビ栽培が盛んに行われるようになった。サトウキビ栽培はやがて軌道に乗るが、当時のサトウキビ生産は、開墾後肥料を与えることもなくサトウキビを栽培し刈り取るだけといった極めて粗放的なもので、次々と原生林が切り開かれていった。傾斜が急で土壌が薄い地域では土壌流出のために耕地が放棄される場所もあった。また砂糖を煮詰めるために薪が必要とされ、これもまた原生林の伐採に拍車をかけた。やがてサトウキビ栽培は母島、硫黄島、北硫黄島など、父島以外にも広まっていった。 1910年代後半になると、砂糖価格の下落とサイパン島、テニアン島などの南洋群島での製糖事業の発達によって小笠原諸島のサトウキビ栽培は下火となり、カボチャなどの野菜栽培などが盛んに行われるようになった。ビニールハウスが普及していなかった当時、日本本土では野菜が収穫できない時期に出荷が可能であった小笠原の農業は成功を収めていった。 また、小笠原固有種の中でも有用であるために伐採が盛んに行われた種もある。その中で代表的なものがオガサワラグワで、緻密で優れた材質のオガサワラグワは木材として高値がついたため、山中の巨木を中心に伐採が進められた結果、激減してしまった。 小笠原諸島に繁殖のために大挙集まっていた海鳥やウミガメも受難の時を迎えた。アホウドリは北之島などの聟島列島が鳥島や尖閣諸島と並ぶ一大繁殖地であったのが、明治時代になって羽毛採取のために乱獲され、小笠原諸島で繁殖が確認されないようになってしまった。またかつて父島などでは多くのアオウミガメの繁殖が行われていたものの、やはり明治時代になって食用のために年間2000-3000頭が捕獲されたため、たちまちのうちにウミガメの数も激減していった。 小笠原の自然が急速に失われていくことに対する対策は、かなり早い時期から行われてはいた。まず1899年には新たな開墾が禁止され、植林が行われるようになった。しかしその中でリュウキュウマツ、モクマオウなど、現在小笠原の生態系に悪影響を与えている植物が植林という形で持ち込まれる副作用ももたらされることになった。また1910年からは数が激減したウミガメの保護を目的とした、ウミガメの人工孵化、放流事業が開始された。1921年には小笠原営林署が設置され、小笠原の国有林の調査が進められるようになった。そして1926年にはこれまでの無計画な森林破壊の反省もあって、母島の石門山、桑ノ木平、硫黄島の玉名山の3か所を学術保護林に指定した。
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