日本による回教工作
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「中国におけるイスラームの歴史」の記事における「日本による回教工作」の解説
「中国回教協会」および「回教工作」も参照 1920年代ごろから日本において満州や内モンゴルの権益の確保やソ連との対決を見据えてムスリムを味方につけることを目標として陸軍や外務省、満州鉄道調査部による調査活動が活発になった。また、何人もの日本人活動家が中国のムスリム社会に入り込んで工作活動を行った。 1937年の盧溝橋事件の直後には天津回教会と北京回教会が設立され、同年の冬には清真寺で日の丸や「イスラム教徒同胞に告ぐ」という文書が入った袋が撒かれた。1938年2月7日には中国回教総聯合会の結成式が挙行され、日本の軍司令部や憲兵隊の代表が出席した。そのほか、日本軍はムスリムの訪日視察団を派遣したり回民青年学校や回民小学校などを運営したほか、ムスリムの貿易商を宿泊させる回民会館を運営し、日本語教員の育成を行った。 1938年6月には回教総聯合会に対抗するかたちで南京政府によって「国民政府の擁護、三民主義に適応した行動の促進、イスラームの発揚、ムスリム同胞の団結、抗戦建国に対する協力」を宗旨として掲げる中国回民救国協会が組織され、中国全土のムスリムの統一や彼らの抗日戦争への参加、ムスリムと漢族の不平等関係の撤廃を声明した。また、東南アジアや中東に赴いてアラビア語での抗日宣伝活動を行った。 英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Al-Quran/Al-Baqarah 日中戦争下では「愛国愛教」というスローガンは国民政府側の中国ムスリムたちのあいだに定着し、クルアーンの第2章190節や第194節に基づいて神の意志に適うものとして抗戦が行われた。しかし、日本からの経済的な支援を引き出すために日本側につき、積極的に回教工作に協力していたムスリムもいた。1938年末、こうした親日派のムスリムがマッカ巡礼に向かった際には抗日派のムスリムもそれを追いかけ、親日派を監視するとともに日本との関係を断つように迫ったという。 結局、日本の回教工作は支持を得られず、戦局の悪化から1941年以降は縮小の一途をたどった。日本の撤退後、親日派のムスリムは糾弾され、なかには死刑に処されたものもいた。
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