日本による占領と軍政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:06 UTC 版)
「シンガポールの歴史」の記事における「日本による占領と軍政」の解説
詳細は「日本占領時期のシンガポール」および「シンガポールの戦い」を参照 またイギリスは、シンガポールを東南アジアにおける植民地拠点として、15万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要塞化していた。このため1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、同日、日本軍はシンガポールを空襲。付近の軍事施設についても陸軍航空部隊、海軍航空部隊が攻撃を加えた。その後、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けた。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した2月15日に終わった(シンガポールの戦い)。 その後は日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。軍政下の行政組織として「昭南特別市」が設置され、初代市長には、日本人内務官僚の大達茂雄が任命された。その後日本から多くの官民が送られ、軍政が敷かれた。市内では憲兵隊が目を光らせ、ヨーロッパ系住民は収容され、インド系・マレー系住民の他、華僑も泰緬鉄道建設のために徴用された。 また当時は日中戦争の最中でもあったため、中国系住民のゲリラや反乱を恐れた日本軍は、山下奉文司令官名の「布告」を発行し、反日ゲリラやその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、氏名を英語で書いた者を「知識人」、「抗日」といった基準で選別し、対象者をトラックで海岸などに輸送し殺害した(シンガポール華僑粛清事件)。この事件は戦後の1961年12月に、イーストコーストの工事現場から白骨が発掘されたことにより、日本に血債の償い(血債は中国語で『人民を殺害した罪、血の負債』といった意味)を求める集会が数万人の市民を集めて開かれる事態に発展し、1967年には「血債の塔」が完成した。犠牲者数は資料の不足や事実関係の不透明から史料による差が大きく、日本政府の調査では6000人、華僑側では4万人であり、桜本富雄は10万人説を唱えている。秦郁彦は、日本側では約5000人という説が多いとしている。シンガポール側では、許雲樵元南洋大学教授が作成した名簿では8600人余りとなっている。 またフランスのボルドー軍港にドイツ海軍との協同作戦基地を保持し、1943年3月にドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだイタリア海軍が、日本が占領下に置いたシンガポールに潜水艦の基地を作る許可を取り付け、工作船と海防艦を送り込んだ。しかし、同年9月にイタリアが連合国に対して降伏したため、シンガポールに派遣されたイタリア海軍の潜水艦「コマンダンテ・カッペリーニ」と「ルイージ・トレッリ」が、大日本帝国海軍を経由してドイツ海軍に接収された。さらに1945年5月にドイツが降伏した後は大日本帝国海軍に接収され「伊号第五百三潜水艦」、「伊号第五百四潜水艦」として終戦を迎えている。
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