日本による人間の展示
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 19:01 UTC 版)
ヨーロッパ同様に日本にも見世物小屋において、奇形を売り物にする歴史があった。しかし、見世物は学術目的ではなく単純な好奇心を満たすことが閲覧の目的であるため、本項で言う人間の展示に含めることはできない。生活を紹介する展示というのは近代の中で現れてきたものである。 国際博覧会における日本の展示は当初、欧米人に対して自らエキゾチズム、ジャポニスムを前面に出すことから始まった。最初に参加した1867年のパリ万博では伝統的な工芸・美術品の出品と同時に、日本茶屋というスペースにおいて、清水卯三郎に連れられた柳橋芸者が三人参加し、工芸品同様大きな人気を博した。こうした展示は数々の博覧会で好評を博し、特にゲイシャガールの人気はパリ万国博覧会 (1900年)会場近くの劇場で私的に公演されていた川上音二郎・川上貞奴の人気からも窺える。 社会進化論や進化主義に影響された人間の展示は、1903年の大阪内国勧業博覧会に作られた「学術人類館」と、翌年のセントルイス万国博覧会のアイヌ村をまつ必要があった。 台湾総督府民政長官の後藤新平は理蕃政策などの成果を見せようと、「風俗文化産業の真相を内外人に示し、大に管内諸般の発達を図らむ」と、農業・園芸から台湾原住民や漢民族習俗に至る一五部門の展示を行った。纏足の少女による喫茶は博覧会でも大きな話題をよんだ。また留学先で見学した1889年のパリ万博の人間の生活の展示に深く感銘を受けた東京大学の坪井正五郎によって企画された学術人類館では 内地に近き異人種を聚め其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、瓜哇一名、バルガリー一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に摸したる一定の区画内に団欒しつゝ日常に起居動作を見すにあり。 と欧米で行われていた人間の展示を模したものを行う予定であった。実際には外交ルートを通じて清朝が開催前に抗議し、朝鮮からも開会直後に抗議があったのでこれらの二民族は展示が取りやめられた。また沖縄県でも会期中に、自分たちの同胞がアイヌや生蕃などと同列に展示されることについて異議が新聞などで唱えられることとなった。これは後に人類館事件と呼ばれたが、当時既にアジアにおいて人間の展示が、洗練と野蛮を展示するものであると理解されていたことがわかる。 アイヌ民族資料の万博展示は1873年のウィーン万国博覧会にまでその起源を遡ることができる。アイヌ=コーカソイド同祖説を類推していた地質学者ライマンは、1876年のフィラデルフィア万国博覧会にアイヌの参加を打診していた。しかし実現においては、1904年のセントルイスを待たなくてはならなかった。 1903年11月、セントルイス博の人類学部門責任者であるマクギーは正規の規格の一部としてワシントン日本大使館にアイヌの展示協力を詳細な計画書とともに依頼した。選定にはシカゴ大学の人類学教授のフレデリック・スターとアイヌ研究者であるジョン・バチェラーが協力し、9人のアイヌが旅券に北海道平民として記載され渡米した。9人は7ヶ月の長期滞在の間1日1円の報酬と民芸品の売上を獲得した。そのうち数名は日本語ができなかったと考えられている。文化程度の低い民族として選ばれたアイヌであったが、信仰心や勤勉さ、礼節について見学者から高く評価された。また同時に開催された1904年セントルイスオリンピックの「人類学の日(Antropological day)」にもアイヌは参加した。このとき西欧社会にとって既に文明化されていた日本、清、東インド、セイロンの参加も予定されていたが、実際にはこれらの人々は参加しなかった。 1910年、ロンドンで催された日英博覧会の余興ゾーンにおいてアイヌと台湾原住民のパイワン族に生活住居が作られ、住み込みの人間の展示が行われた。この展示は正規パビリオンで行われるような人類学的な展示や植民地の正当化を目的としたものではなく、余興として企画されたものであった。当時の資料(『博覧会事務局報告』)によれば、日本政府が自ら企画したのではなく、日本政府が演出をまかせた英国人シンジケートの発案であったことが記されている。この展示についてThe Daily News誌は「アイヌは世界でもっとも礼儀正しい人種である」しかし「台湾人とアイヌを混同視してはならない。台湾土人は礼儀正しくない」と報道し、また前述の人類学者フレデリック・スターが「コーカソイドであるアイヌの民族的なサルベージ」を訴えた。選出に際しても熟練した日本語話者が選ばれ、アイヌに出された旅券はセントルイスの時と異なり、平民ではなく「空欄」であったりと、差別的な眼差しが派生していることも窺える。半年間の開催期間には多数の客が訪れ盛況であったために、参加者は報酬とチップを合わせると帰国後一年間働かなくてもよい収入があった程羽振りがよかったようだと、近隣のものが述懐する程であった。同時に作られた日本の農村風景については、台湾日日新報が不適切であり、不当であったと批判している。 日英博覧会の「日本余興」は、客寄せと運営資金獲得の必要から重要視された計画であった。その企画・運営は日本人が為すべきと当初英国側から勧めがあったが、ヨーロッパ人の集客のための立案は日本人には不適と判断した日本政府は、英人「シンジケート」にそれを全面的に委託した。委託にあたっての方針としては「本邦の品位を損するものは一切之を許容せさること」とし、委託した博覧会事業者の希望を考慮した上で「台湾生蕃の生活状態」を含む8項目の「余興」を容認したと、後に書かれた『博覧会事務局報告』は記している。 この「余興」について朝日新聞記者として特派された長谷川如是閑は、博覧会見聞ルポルタージュの中で『台湾村』について、「之を多くの西洋人が動物園か何かに行ったやうに小屋を覗いて居る所は聊か人道問題にして、西洋人はイザ知らず日本人には決して好んでかかる興行物を企てまじき事と存じ候。」と批判した。如是閑の批判の矛先は「博覧会会社」であるが、それは日本政府が全面委託した英人「シンジケート」を引き継いだ現地会社のことである。博覧会はなお続いたが、その後展示方法を変更したという記述は「日英博覧会事務局事務報告」にはない。 国内での人間の展示は続き、1912年の東京上野での拓殖博覧会では、「オロッコ、ギリヤック、樺太アイヌ、北海道アイヌ、台湾土人、台湾蕃人の諸種族男女長幼総数18人」が会期中に自分たちの伝統的住居をつくり、そこで寝泊まりした。1914年の東京大正博覧会では、これまでの博覧会同様にアイヌや台湾人と同時に、南洋諸島や東南アジアのベンガリ人・クリン人・マレー人・ジャワ人・サカイ人を集めた南洋館が作られた。博覧会主催者が配った冊子によれば、これらの人々は食人種と紹介され、鰐や大蛇、象などの展示に混じって生活の展示をさせられたという。 1916年の台湾勧業共進会では正規パビリオンの蕃俗館において、生人形や模型とともにツォウ族とタイヤル族の伝統的住居(蕃屋と称された)が作られ、また民間人がフィリピン人の農家を建てフィリピン人を住ませて生活の展示を行った。さらに1935年、台湾博覧会においても、会場内にタイヤル族の蕃屋が立てられ、男女が寝泊まりし日常生活をしめした。 日本がおこなった民俗紹介の展示は「人間動物園」という分析概念で参照されていないが、吉見俊哉は『博覧会の政治学』において、上述したジャルダン・ダクリマタシオンの学芸員アルベルト・ジョフロア・ド・サンヒレアがヌビア人とイヌイットを紹介した二つの民族学的な展示を「人間動物園」と呼び、それを日本が内国勧業博覧会や日英博覧会で導入したと主張している。 2009年4月NHKの番組「NHKスペシャル シリーズ 「JAPANデビュー」」第一回放映分において、日本が1910年に開催された日英博覧会でパイワン族の紹介を「人間動物園」と表現。これについて抗議の声があがり、パイワン族から名誉毀損であるという訴えがなされた。2013年11月28日、東京高等裁判所は「当時は使用されていない言葉」とし、「一部の学者が唱える言葉に飛びつき、その評価も定まっていないのに人種差別的な意味合いに配慮せずに番組で何度も言及し、日英博覧会に志と誇りを持って出向いたパイワン族の人たちを侮辱した」と名誉毀損・民族差別であるとして、NHKに損害賠償を命じる判決を言い渡したが、上告審で原告は敗訴した。 詳細は「NHKスペシャル シリーズ 「JAPANデビュー」」を参照
※この「日本による人間の展示」の解説は、「人間動物園」の解説の一部です。
「日本による人間の展示」を含む「人間動物園」の記事については、「人間動物園」の概要を参照ください。
- 日本による人間の展示のページへのリンク