日本による「ポツダム宣言」受諾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 14:56 UTC 版)
「台湾光復」の記事における「日本による「ポツダム宣言」受諾」の解説
8月に日本が、ポツダム宣言を受諾し、9月2日東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号において、日本国全権が連合国に対する降伏文書に署名をした。これを受け同日連合国最高司令官マッカーサーは、「対日一般司令」第1号(SCAPIN-1)ⅠのAにおいて、旧「満州」以外の中国大陸と台湾およびフランス領北ベトナムに居た日本軍に対し、中国戦区最高司令官蔣介石への降伏を命じた。このころ中国では、すでに国民党と中国共産党の内戦が始まっており、蔣介石が率いる中国軍は、実質的には国民党軍であった。蔣介石は、上記SCAPIN-1を待たずに、降伏文書調印の前日である9月1日に、陳儀を「台湾省」行政長官兼同省警備総司令に任命し、台湾における降伏接受を命じた。蔣介石は、「カイロ宣言」を根拠に台湾の領有権の変更に関する国際条約もないまま、素早く台湾を中国の「台湾省」としたのである。陳儀は重慶で行政長官公署の要員を任命して台湾接受の中核組織を編成した。10月17日、国軍2個師団1万2000人と長官公署官員約200名が、米軍機の護衛の下、米国艦船約30隻に分乗して、基隆港に到着した。国民党軍は、戦勝国とはいえ米軍の全面的な支援を得ての台湾占領であった。
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