日本によるビルマの占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 05:55 UTC 版)
「日本占領時期のビルマ」の記事における「日本によるビルマの占領」の解説
1942年の春、ビルマ独立義勇軍はいくつかの地域で暫定政府を発足させた。しかし今後のビルマの扱いに関しては日本軍の上層部の間でも意見が割れていた。鈴木大佐は30人の同志による暫定政府の樹立を後押ししたが、当初軍部は公式にはその計画を受け入れなかった。最終的には軍部もバー・モウによる政府の樹立を約束するものの、この約束が方便だということはすぐに明らかになった。 1942年、ビルマ独立義勇軍は制御しきれないほどの勢いで成長した。多くの地域で公務員や果ては罪人までもが国民軍に参加していた。結果として日本軍の主導によりビルマ独立義勇軍は「ビルマ防衛軍」へと再編されることとなるが指導者は尚もアウンサンが務めた。正式な軍隊ではなかったビルマ独立義勇軍時代とは違い、ビルマ防衛軍では人員の選別が行われ、日本の指導の下で本格的な軍事訓練が行われるようになった。 戦争の潮目が変わり、日本のにとっての戦況が悪化し始めると1943年8月1日、日本はビルマの独立を認めた。バー・モウは国家元首就任を宣言する。内閣にはアウンサン(国防相)、タキン・タントゥン(英語版)(農務相)らが名を連ねた。1943年に日本がビルマの独立を宣言すると、ビルマ防衛軍はビルマ国民軍へと改名した。 しかしこのビルマ国の建国もまた見せかけの独立であった。日本に愛想をつかせたアウンサンは、1944年8月、バゴーにて秘密裡にタキン・タントゥンら共産党の指導者や社会党の指導者らと会合、交渉をすすめ、反ファシスト人民自由連盟を組織、日本のファシズムに激しく抵抗し、より公正で平等な社会の実現を掲げた。 1941年7月、インセイン刑務所に収監中だったタキン・タントゥンとソエは共同で「インセイン・マニフェスト」を発表した。この声明では今後は反ファシズムを掲げて戦っていくことが宣言されていた。これは当時のタキン党の主流派とは相反する立場であった。そして彼らはイギリスをはじめとした連合国との暫定的な共闘を求めた。この時すでにソエは組織的な抗日運動を遂行するために地下に潜っており、タキン・タントゥンは日本から得た情報をソエに流せる立場にいた。その他の共産党指導者たちはインドのシムラーにある亡命植民地政府との接触を図った。
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