ビルマ独立義勇軍とは? わかりやすく解説

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ビルマ独立義勇軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 03:09 UTC 版)

ビルマ国民軍」の記事における「ビルマ独立義勇軍」の解説

第二次世界大戦前イギリスの植民地であったビルマでは、軍事部門への現地人関与カレン族など少数民族だけに認め統治政策が採られていた。そうした中で、タキン党急進派武装独立運動目指し活動していた。日本陸軍は、日本イギリス戦争態となった場合ビルマ侵攻作戦想定しており、このタキン党などを支援することで日本軍協力的な現地人組織育成図ろうとした。タキン党でも、外国からの支援積極的に受け入れ方針であったため、日本陸軍支援を受けることにした。日本陸軍は、1940年昭和15年)から翌年7月にかけて、アウンサン30人タキン党員を密かに亡命させた。また、ビルマ独立支援の謀略担当する特務機関として「南機関」を創設したアウンサンらは、南機関支援受けて日本軍占領下海南島軍事訓練開始した南機関としては、訓練施したゲリラ要員ビルマ帰国させて、ビルマ公路遮断工作をさせる計画であった1941年昭和16年12月8日太平洋戦争勃発して日本イギリス戦争状態に陥ると、アウンサンらは、南機関とともにタイバンコク拠点移し、ビルマ独立義勇軍(BIA)の編成着手した12月28日宣誓が行われ、タイ在住ビルマ人200人を主力とするビルマ独立義勇軍が結成された。南機関員や現地商社員の義勇兵など日本人74人も参加した。独自の階級制敷き軍司令官には南機関長の鈴木敬司大佐ビルマ名でボーモージョー大将名乗って就任アウンサン階級大佐)らは参謀などとされた。日本から支給され小火器武装し専用軍服なども支給された。 ビルマ独立義勇軍は、1942年昭和17年1月3日から、ビルマ侵攻作戦参加した任務重点は、戦闘よりも民衆工作置かれた。ビルマ独立義勇軍は、占領地各地志願兵募って軍事訓練施しつつ前進した一部では敗走中のイギリス軍交戦した3月25日には、首都ラングーンで4500人による観兵式行った4月には日本人将兵指揮系統から外れ軍事顧問としての立場退いたビルマ攻略戦終結時には、ビルマ独立義勇軍の総兵力は約2万7千人激増していた。 1942年6月には、クリーク地帯での作戦用に、兵力30人小規模な海軍が、ビルマ独立義勇軍の下に設置された。元イギリス海軍兵が主体だった。現在のミャンマー海軍起源とされる

※この「ビルマ独立義勇軍」の解説は、「ビルマ国民軍」の解説の一部です。
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