ビルマ独立義勇軍
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第二次世界大戦前、イギリスの植民地であったビルマでは、軍事部門への現地人関与はカレン族など少数民族だけに認める統治政策が採られていた。そうした中で、タキン党急進派は武装独立運動を目指して活動していた。日本陸軍は、日本がイギリスと戦争状態となった場合のビルマ侵攻作戦を想定しており、このタキン党などを支援することで日本軍に協力的な現地人組織の育成を図ろうとした。タキン党側でも、外国からの支援を積極的に受け入れる方針であったため、日本陸軍の支援を受けることにした。日本陸軍は、1940年(昭和15年)から翌年7月にかけて、アウンサンら30人のタキン党員を密かに亡命させた。また、ビルマ独立支援の謀略を担当する特務機関として「南機関」を創設した。アウンサンらは、南機関の支援を受けて、日本軍占領下の海南島で軍事訓練を開始した。南機関としては、訓練を施したゲリラ要員をビルマに帰国させて、ビルマ公路の遮断工作をさせる計画であった。 1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発して日本とイギリスが戦争状態に陥ると、アウンサンらは、南機関とともにタイ領バンコクに拠点を移し、ビルマ独立義勇軍(BIA)の編成に着手した。12月28日に宣誓式が行われ、タイ在住のビルマ人約200人を主力とするビルマ独立義勇軍が結成された。南機関員や現地商社員の義勇兵など日本人74人も参加した。独自の階級制を敷き、軍司令官には南機関長の鈴木敬司大佐がビルマ名でボーモージョー大将を名乗って就任、アウンサン(階級は大佐)らは参謀などとされた。日本から支給された小火器で武装し、専用の軍服なども支給された。 ビルマ独立義勇軍は、1942年(昭和17年)1月3日から、ビルマ侵攻作戦に参加した。任務の重点は、戦闘よりも民衆工作に置かれた。ビルマ独立義勇軍は、占領地各地で志願兵を募って軍事訓練を施しつつ前進した。一部では敗走中のイギリス軍と交戦した。3月25日には、首都ラングーンで4500人による観兵式を行った。4月には日本人将兵が指揮系統から外れ、軍事顧問としての立場に退いた。ビルマ攻略戦終結時には、ビルマ独立義勇軍の総兵力は約2万7千人に激増していた。 1942年6月には、クリーク地帯での作戦用に、兵力30人の小規模な海軍が、ビルマ独立義勇軍の下に設置された。元イギリス海軍兵が主体だった。現在のミャンマー海軍の起源とされる。
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