ビルマ独立運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 20:33 UTC 版)
ビルマ独立運動は1930年代に活発化した。運動の前衛は1930年に結成された「タキン党」(われらビルマ人党)であった。タキン党にはラングーン大学の学生が数多く参加していた。1930年代後半に学生運動のリーダーとして活躍したのがタキン・オンサン(アウン・サン)やウ・ヌーらである。タキン党などの運動の激化を抑えきれず、バー・モウ政権は成立後程なくして瓦解した。その後第二次世界大戦が勃発すると、タキン党は下野したバー・モウの「シンエタ党」(貧民党)などと共に「自由ブロック」を結成し、独立運動の大同団結を遂げた。 ビルマ民族主義者の中には議会を通じた穏健な運動を目指す者もいたものの、タキン党は対英非協力と武装蜂起を掲げ、インド国民会議派、中国国民党、中国共産党、日本など、いずれの外国勢力からの援助でも受け入れる考えを持っていた。1940年に入ると、イギリスは自由ブロックに対して弾圧を加えた。バー・モウら首脳陣が相次いで投獄される中、タキン・オンサンは同志タキン・ラミヤン(フラ・ミヤイン)とともに、外国勢力からの援助を求めるために苦力に変装して密出国し、アモイへと向かった。
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