ビルマ王朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 10:58 UTC 版)
9世紀から19世紀までのビルマ王朝の軍隊を王立軍という。王立軍とは、時系列順にパガン王朝、アヴァ王朝、タウングー王朝、コンバウン王朝の軍隊を指す。19世紀にイギリスに60年かけて敗れるまでの間、王立軍は東南アジアでも有数の軍隊であった。 王立軍は首都と宮殿を守る数千人規模の独立部隊と、より大規模な徴兵による戦時軍に分かれて組織される。徴兵は、戦時には地域の首長に管轄区域内の人口に基づき予め決められた数の兵を提供させる「ahmudan制」を基盤としていた。また戦時郡には戦象兵、騎兵、砲兵、水軍の部隊も含まれた。 火器は14世紀に中国から初めて導入され、何百年もかけて徐々に戦略へ取り入れられるようになっていった。ポルトガル製の火縄銃と大砲を装備した最初の特別部隊は16世紀に編成された。この特別火器部隊を除けば、通常の徴募兵に対する正式な訓練はなく、彼ら徴募兵は自衛のための基礎知識と、自前の火縄銃の操作習熟を期待されているだけであった。18世紀になって欧州列強との技術の差が大きくなるにつれ、軍は欧州から売り込まれる、より洗練された武器に依存するようになっていった。 王立軍は隣国の軍隊に対する防衛力は保っていたが、より技術的に進んだ欧州の軍隊への対抗力は劣化していった。 王立軍は、17世紀と18世紀にそれぞれ侵入したポルトガルとフランスを撃退したものの、19世紀に侵入した大英帝国の軍事力には及ばず、第1次、第2、第3次英緬戦争に敗れた。1886年1月1日、ビルマ王立軍はイギリス政府によって正式に解散された。
※この「ビルマ王朝時代」の解説は、「ミャンマー軍」の解説の一部です。
「ビルマ王朝時代」を含む「ミャンマー軍」の記事については、「ミャンマー軍」の概要を参照ください。
- ビルマ王朝時代のページへのリンク