9世紀から19世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:13 UTC 版)
「アンドラの歴史」の記事における「9世紀から19世紀まで」の解説
803年、フランク王国のシャルルマーニュがピレネー山脈中においたスペイン辺境領の一つ、ウルヘル伯領(英語版)を起源とする。アンドラはシャルルマーニュが設立した辺境領のうち、最後まで存続した唯一の国である。 1133年、ウルヘル伯はウルヘル司教にアンドラの宗主権を譲り渡した。1096年、司教はカボー家(カタルーニャ語版)にアンドラの防衛を委ねる代わりに、代償としてアンドラの一部カボー谷の統治権を与えた。カボー家の権利はカステルボー子爵(カタルーニャ語版)との婚姻によって移動し、1208年にはフォワ伯(英語版)家によって掌握された。フォワ伯家はアンドラ全体の統治権を狙い、司教と争うようになった。事態の解決のため、1278年に両者を対等の共同統治者とする宗主契約が結ばれた。アンドラの国境は1278年に定められた以降、現代にいたるまで変わっていない。1419年には最初の議会が設置されている。フォワ伯のガストン4世はナバラ女王のレオノールと婚姻し、以降フォワ伯位とアンドラの統治権にくわえてナバラ王を継承するようになった。フォワ伯の地位は女系を経てブルボン家に渡り、1589年にアンリ4世がナバラ王兼フランス王となったことでフランス国王がアンドラの宗主権を受け継ぐことになった。そして、アンリ4世が1607年にフランス王とウルヘル司教を共同大公とする勅令を出したことで、アンドラは公国となった。 1278年の宗主契約以降はフランスとスペインの間で相互監視が働き、またアンドラの重要性が低かったため2国間の紛争はほとんど起こらなかった。 フランス革命が発生して1793年にルイ16世が処刑されると、フランス側の共同大公は存在しなくなった。アンドラ側は革命政権を承認せず、フランス第一共和政政府もアンドラとの関係を絶った。1794年、スペインとの間でピレネー戦争を戦っていた共和政政府は、この機にアンドラを併合しようともくろんだ。この時アンドラの代表がフランス軍の司令官のもとにおもむき、侵攻を断念するよう説得している。1806年、フランス皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトとの間で両国関係は修復され、再びフランスの元首が共同大公につくことになった。しかし、フランスは半島戦争中の1812年-1813年にアンドラを含むカタルーニャ地方を併合した。カタルーニャ地方は4県に分割され、うちアンドラはセグル県に組み込まれた。1814年、国王勅令によりアンドラは独立を回復した。
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