9世紀から12世紀(平安時代中・後期)
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「陸奥国司」の記事における「9世紀から12世紀(平安時代中・後期)」の解説
9世紀初めに現在の岩手県を征服すると、陸奥国の領域もそれにともなって北に拡張した。しかし新領土には従来国府にあった鎮守府が移転し、国司ではなく鎮守府の官人が支配した。これ以降の鎮守府は、陸奥国の上ではなく、同格でやや下に位置づけられた。 一方、陸奥按察使は、遥任を前提にして中央の公卿が任命されるようになり、陸奥守との兼任はなくなった。陸奥守との上下関係は実質をともなわなくなった。 軍事重視の陸奥守・介任命は9世紀以降も引き続くが、9世紀の守・介には大伴改め伴氏のほか坂上田村麻呂を出した坂上氏、小野氏が目だち、藤原氏の比重も高まる。10世紀に入ると伴氏などは消え、藤原氏と桓武平氏が多数を占めた。 清和源氏がはじめて見えるのは10世紀末の源満政で、源頼義・義家父子が11世紀半ばに陸奥守になって前九年の役と後三年の役を戦った。清和源氏は系図で陸奥守と記される者が多いが、他の史料で就任が確認できるのはその3人と義家の弟義綱だけで、12世紀を通じて陸奥国に縁がなかった。結局、平安後期の陸奥守・介で一番多いのは藤原氏である。 奥州土着の勢力である安部氏・(出羽)清原氏は、もっぱら鎮守府の管轄になる陸奥国の北部で力をふるったが、その威勢は地域的に局限され、中部以南における陸奥国司の職権を根本的に脅かすものではなかった。しかし奥州藤原氏、特に藤原秀衡の勢威は陸奥国司の権限浸食まで及んだ。秀衡は数年間鎮守府将軍、陸奥守だったが、免官の後も実質的な奥羽の支配者として君臨した。ただその支配の程度については、軍事警察分野にとどまるという説から、行政権も奥州藤原氏の本拠である平泉に移転したとみる説まで分かれる。
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