ローマ側の文献
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:09 UTC 版)
一方で、ローマ側の文献は敗北を認めていない。同時代や後のローマの文献では、遠征は完全に、または部分的に成功したが、ゴルディアヌス3世はピリップス・アラブスの陰謀により殺害されたのだとしている。しかし歴史家の中には、サーサーン朝の勝利は決して虚構ではなく、ピリップスの陰謀もゴルディアヌス3世の死の真相からは程遠いと考えている者がいる。文献によっても、ゴルディアヌス3世は戦場外で死んだとするもの、戦場で死んだとするものに分かれている。また中には、オストロネのキルケシウム近くのザイタ(ミシケの約400キロメートル北方)に、殺害された皇帝の記念碑があったと伝える文献もある。様々な文献の間で混乱があるものの、ローマ軍が敗北の後に十代の若い皇帝に対する不満を爆発させ、弑殺に及んだ可能性もある。またそれらとは別に、6世紀の歴史家ヨハネス・マララスや、9世紀から12世紀の間の東方の3人の歴史家たちが、第三の説を唱えている。彼らは、ゴルディアヌス3世が落馬して腿を負傷し、その怪我がもとで死去した(マララスは、帰国途中の死であったとしている)と伝えている。
※この「ローマ側の文献」の解説は、「ミシケの戦い」の解説の一部です。
「ローマ側の文献」を含む「ミシケの戦い」の記事については、「ミシケの戦い」の概要を参照ください。
- ローマ側の文献のページへのリンク