ローマ典礼様式
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教皇ピオ5世は、1570年7月14日付きで大勅令『クオー・プリームム・テンポレ(Quo Primum Tempore)』を出し、ローマのミサ典礼様式に従うローマ・ミサ典書を永久に有効なミサ聖祭として義務化した。これがいわゆる「トリエント・ミサ」である。 ただし、教皇ベネディクト16世によると、厳密に言えば、そもそもピオ5世によって新しく無から創造された「聖ピオ5世のミサ典書」なるものも、「トリエント・ミサ」なるものも存在しない。「トリエント・ミサ」という言い方は、厳密には正しい言い方ではない。 「成長の長い歴史における一つの段階として、聖ピオ5世によって為された改訂があるのみ」であり、ピオ5世はただ、少なくとも200年以上の歴史を持っていることを証明することが出来ない典礼様式(ritus)を使っている地域にローマ・ミサ典書(Missale Romanum) すなわちローマで使われているミサ典書が使われなければならないことを決定しただけであった。しかし200年以上の歴史がある典礼を持つところではどこでもそれを保持することができた。いわゆる「トリエント・ミサ」なるものは、「歴史的に成立してきたミサ典書」また「人間に先立って神から与えられたもの」として、ピオ5世によって制裁された「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書」である。このミサ典書は、決して「学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたもの」や「人間の裁量の領域のうちにあるもの」ではない。 そのため、2007年7月7日に出した自発教令『スンモールム・ポンティフィクム』では、ベネディクト16世は「トリエント・ミサ」とは言わずに「聖ピオ5世が発布し、福者ヨハネ23世があらためて発布したローマ・ミサ典礼書」と呼び、同時にミサ典礼の「特別な形式(Forma extraordinaria)」とも言った。 典礼学者クラウス・ガンバー(Klaus Gamber) によれば、ローマ典礼様式はその重要部分が、少なくとも4世紀、より正確に言うと教皇ダマソ1世(在位366-384年)の時代に遡ることができ、その後の教皇ジェラジオ1世(在位492-496年)の時代のミサ典文は、大聖グレゴリオ1世(在位590-604年)が手を付けた僅かな変更を除いて、現代にまで伝えられている形のミサ典文そのままであることが確認できる。5世紀以来、教皇たちはただ一つのことを要求してきた。それは(ラテン典礼では)ローマ典文を使わなければならないということであった。何故なら、教皇たちの理由は、この典文が使徒聖ペトロに由来するものだからだ。しかしその他の部分に関しては、地方の教会の習慣が尊重された。 ミラノを中心に行われていたアンブロジウス典礼、トレドとマドリッドで行われていたモザラベ典礼、12世紀以来の伝統を持つカルメル会、カルトゥジオ会、ドミニコ会の独自の典礼様式(ritus)などが認可されていた。しかし、典礼様式はそれぞれ異なっても、それらを統一するものはローマ典文(Canon) であった。これは、5世紀以来の教皇たちが使徒聖ペトロに由来する、という典文であり、どの典礼様式であろうとこれを何も手を付け加えずに使用してきた。教皇たちはこのローマ典文が使徒ペトロからの聖伝に基づくと何度も繰り返し述べてきたからである。 その理由は、教皇には教会の最高牧者として聖伝の典礼様式を廃止する権能があると述べられている文章は、カトリック教会法典を含めて一つも存在していないからであるし、事実、パウロ6世がそうするまで、教皇たちは固有の意味におけるミサ式次第(Ordo Missae) には一切変化を加えたことがない(ただし、特にトリエント公会議以後は、教皇たちは新しい祝日のために新しい固有文を導入しただけである)からである。 また、教皇ベネディクト16世は、「いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ない。教皇は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎない」と述べている。
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