ローマ内戦と執政官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:16 UTC 版)
「プブリウス・ウァティニウス」の記事における「ローマ内戦と執政官」の解説
紀元前51年、ウァティニウスはカエサルのレガトゥスとしてガリアに戻った。紀元前49年に始まったカエサルのローマ内戦の間、ウァティニウスはカエサルと共に行動した。ギリシアでは、カエサルはウァティニウスを講和交渉の使者としてポンペイウスに派遣している。最大の戦いとなったファルサルスの戦いには参加せずに、ブルディンシウム(現在のブリンディジ)を、ポンペイウスの艦隊の一部を率いていたデキムス・ラエリウス(en)から防衛した。 この成功が評価され、紀元前47年にウァティニウスは執政官に就任した。紀元前46年、ウァティニウスは3個軍団を率いてイリュリクムへ出征し、ポンペイウス派の残党で大きな艦隊を有していたマルクス・オクタウィウスに勝利し、小凱旋式を実施した。 紀元前44年にカエサルが暗殺されると、軍ごとマルクス・ユニウス・ブルトゥスに降伏せざるを得なかった。ブルトゥスがマケドニア属州総督となると、ウァティニウスの軍もマケドニアに移動した。 ウァティニウスに関する最後の記録は、紀元前42年に凱旋式を行ったというものである。
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