講和交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:40 UTC 版)
「エーリヒ・ルーデンドルフ」の記事における「講和交渉」の解説
戦況を絶望視したルーデンドルフは、ヒンデンブルクとともに1918年9月28日にドイツ政府に対して一刻も早くウッドロウ・ウィルソン米大統領の提唱する「十四か条の平和原則」を受け入れて休戦協定を結ばなければならない、そのためにも政府を改革して議会主義に基づく政府を作らねばならないとする通牒を送った。ルーデンドルフは公然たる敗戦を回避するとともに敗戦責任を文官政府に押し付けたがっていた。 9月29日ベルギースパの大本営は講和交渉の開始を決定、ヘルトリング首相は辞任、10月3日には議会多数派のドイツ社会民主党の支持を受けた自由主義者のバーデン辺境伯マクシミリアン・フォン・バーデン大公子を宰相とする社会民主党・中央党・ドイツ民主党の臨時政府が成立した。 10月8日から27日にかけてマクシミリアンはウィルソンと休戦交渉に向けた電報のやり取りをしていたが、アメリカの要求は次第に厳しくなっていった。 10月23日、ウィルソンは講和の条件としてドイツ帝国における軍国主義と王朝的専制主義の除去を要求した。独立社会民主党らは皇帝ヴィルヘルム2世の退位を要求し、講和運動が広範囲に行われた。 10月24日のウィルソン大統領の第3回返信はドイツ軍の完全撤兵と交戦能力の徹底的剥奪を求めており、休戦後に戦争再開というルーデンドルフの妄想を打ち砕くものだった。これを受けてルーデンドルフは徹底抗戦を主張して休戦反対派に転じた。この時ルーデンドルフはライン川まで撤退し、東ヨーロッパから戦争を再開し、1919年春にはもっと有利な条件で改めて休戦を結ぶという青写真を描いていた。 宰相マクシミリアンは辞職をちらつかせながら皇帝ヴィルヘルム2世にルーデンドルフ解任を求め、10月26日ついにルーデンドルフは参謀本部次長を辞することとなった。後任にヴィルヘルム・グレーナーが就任した。一方ヒンデンブルクは留任した。ルーデンドルフはヒンデンブルクと別れる時に「貴方も辞職されるべきだった」と述べた。 翌10月27日、ルーデンドルフはスウェーデンに亡命した。スウェーデンで『戦争回顧録』(Kriegserinnerungen)を著した。 ドイツ臨時政府をユダヤ人指導者に屈した政府と見たマックス・バウアー大佐は、ルーデンドルフ、大企業家フーゴ・シュティネスとともにユダヤ人アルベルト・バリンを担ぎ出したが、バリンは12月に自殺した。
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