講和の会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:29 UTC 版)
「ベオグラード包囲戦 (1739年)」の記事における「講和の会談」の解説
詳細は「ベオグラード条約」を参照 ベオグラードの講和会談において、ヴィルヘルム・ラインハルト・フォン・ナイペルクがオーストリアを代表し、Koca Ragıp Pasha(将来の大宰相)を含む一団がオスマン帝国を代表した。国境変更で大きな問題は起きなかった。オーストリアがオスマン側に領地を割譲することに同意した。しかし、一番の問題は、ベオグラードの将来に関することだった。最初、オーストリアは領地割譲の代わりにベオグラード領有を維持することを提案したが、オスマン代表は拒否した。第二に、オーストリアは要塞を解体した上でベオグラードを割譲することを提案したが、İvaz Mehmet Pashaはこちらも拒否した。最後に、オスマン帝国に駐在するフランス大使Louis Sauveur Villeneuveは元々オスマン帝国の要塞だった部分の維持で妥協するように提案した。両国はこの提案に同意し、1739年9月18日に条約が締結された。
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