講和と戦争の終結
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「第一次マラーター戦争」の記事における「講和と戦争の終結」の解説
そのうえ、第二次マイソール戦争によりマイソール軍にマドラスが包囲されるなど、ボンベイ方面よりむしろマドラス方面に大軍を派遣する必要が出てきた。イギリスもさすがに第一次マラーター戦争と第二次マイソール戦争の両方を相手にすることはできなかった。 これらの状況を聞いたヘースティングズはミュール大佐を派遣し、マハーダージー・シンディアとの和平交渉を行うように命じた。こうして、1782年5月17日にイギリスとマハーダージーとの間でサルバイ条約が締結され、ヘースティングズにもナーナー・ファドナヴィースにもそれぞれ承認された。 講和により、イギリスはマーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを宰相と認めること、ラグナート・ラーオに年金をあてがうこと、サルセットとバルーチ以外の戦争で獲得した領土をすべてマラーターに返還することが定められた。他方、イギリスはこれによりマラーターの脅威が消え、第二次マイソール戦争に全力を注ぐことが可能となった。 こうして、イギリスとマラーターとの間には20年の平和が続き、次に両者が戦火を交えるのは1803年からの第二次マラーター戦争であった。
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講和と戦争の終結
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「第二次マイソール戦争」の記事における「講和と戦争の終結」の解説
一方、ティプー・スルターンも父ハイダル・アリーに負けておらず、その軍事的な才能からイギリス軍に多くの戦闘で勝利し、マイソール王国の拠点たるハイダルナガルを奪取しようとしたイギリス軍も撃退した(ハイダルナガルの戦い)。 1783年5月以降、マイソール軍がイギリスのマラバール海岸における拠点であるマンガロールを包囲しており、守備隊は包囲を解くことが出来ずに苦しんでいた(マンガロール包囲戦)。イギリス側は長期戦に苦しまされる羽目となり、本国でフランスとの講和が成立した以上、この戦争を終わらせることが妥当と考えた。 マイソール王国と共闘関係にあったマラーター王国は、1782年5月に第一次マラーター戦争の講和条約であるサールバイ条約を結び、戦線を離脱していた。この条約ではイギリスがマイソールから領土を回復するにあたっては、マラーターが援助することを約していた。ニザーム王国もまた、イギリスからグントゥール県を譲渡することを条件に戦線を離脱していた。三者同盟は事実上崩壊しており、マイソール側にとっても戦争の続行は不利だった。 1784年3月11日、イギリスとマイソール王国の双方は講和条約マンガロール条約を締結し、ここに第二次マイソール戦争は終結した。これにより、マンガロールの包囲は解かれ、領土は戦争前の状態に戻されることとなり、ティプー・スルターンはシュリーランガパトナへと帰還した。 マンガロール条約の文書はインドの歴史でも重要な文書である。というのも、インドの民族にとって、イギリスに腰を低くして休戦を請わせるように仕向けた最後の機会だったからである。戦後、ヘースティングズはこれを屈辱的な講和と呼び、国王と議会に「イギリス国民の信義と名誉が等しく侵害された」としてマドラス政府を罰するよう訴えた。
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