講和の影響とは? わかりやすく解説

講和の影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:27 UTC 版)

モスクワ講和条約」の記事における「講和の影響」の解説

フィンランド国民はこれらのあまりにも過酷な講和条件衝撃受けた戦時中失った土地よりも講和によって失った土地が多いように見え実際その通りである)、フィンランド重要な拠点いくつも失われたためである。例えば、最も人口密集しているフィンランド南側大部分サイマー運河通して他国輸送連絡行っていたが、フィンランド湾につながるヴィボルグでこの経路切断されてしまった。また、譲渡した土地南側フィンランド工業力の心臓部であった割譲した土地のうちフィンランド南東部位置するカレリアフィンランド文化の中心地であり発祥地であると考えられていた。冬戦争以前は、ソ連カレリアでのソビエト流の統治と、日常的に行われていたスターリニストによる暴虐な行いはフィンランド人にとって悲しみの種であったが、講和後はフィンランドであった西側カレリアさえ失ってしまった。これはまもなく、もはやカレリア取り戻す必要はないのではないかというカレリア問題引き起こすこととなる。 イギリス・フランスでは、フィンランド口実として、スウェーデン鉄鉱石フィンランドニッケルおよびそれらのドイツへの輸送路を遮断してしまう為にノルウェー北部地上軍を送る計画があったが、ノルウェースウェーデンはこれを拒否していた。フランスは、フィンランド公に軍事支援要求するであればパイロット付き爆撃機提供してもよいとまでしていたが、フィンランド講和してしまったので、ダラディエ政権ハシゴ外された形となり、議会追及されフィンランド講和から1週間後3月20日総辞職した冬戦争終結直後フィンランドは、ドイツにもソ連にも中立維持する為のスウェーデンノルウェーからなる軍事ブロック結成試みたが、ソ連ドイツ反対実現しなかった。1940年夏に、バルト三国ソビエト共和国化されソビエト連邦併合され西ヨーロッパでは、ドイツ電撃戦によりフランス降伏しイギリス本土防衛為に本土航空戦戦っているという状況下では、フィンランド残っている選択肢は、それほどあるわけではなかった。そのような状況のもとドイツ秘密協定を結び、やがて1941年6月ドイツソ連侵攻とともにソ連との継続戦争突入していく。

※この「講和の影響」の解説は、「モスクワ講和条約」の解説の一部です。
「講和の影響」を含む「モスクワ講和条約」の記事については、「モスクワ講和条約」の概要を参照ください。

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