講和交渉の混乱とドイツ革命による帝政崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「講和交渉の混乱とドイツ革命による帝政崩壊」の解説
「ドイツ革命」を参照 ドイツ軍の最後の攻勢である1918年春季攻勢が7月の第二次マルヌ会戦で失敗し、ヴィレール=コトゥレでもドイツ軍が敗れると8月14日にルーデンドルフは軍の規律弛緩を非難し、またユダヤ人青年を早く戦線に送るべきだと演説した。9月には同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国とブルガリアが降伏した。同9月、全ドイツ連盟会長ハインリヒ・クラスとフォン・ゲープザッテル将軍がユダヤ主義に対する抗戦組織ユダヤ委員会を結成した。クラスは、1813年にクライストがフランス人に対して述べた『奴らを殺せ、世界の法廷はあなたにその動機を尋ねたりはしない』というスローガンを掲げ、ユダヤ人問題は単なる経済問題ではなく「世界観にかかわる闘争」だと布告した。同時期にトゥーレ協会が設立された。 臨時政府 ルーデンドルフが即時休戦条約締結を申し入れ、9月29日ベルギースパの大本営は講和交渉の開始を決定した。ヘルトリング首相は辞任し、10月3日には議会多数派のドイツ社会民主党の支持を受けた自由主義者のバーデン辺境伯マックス大公子を宰相とする社会民主党・中央党・ドイツ民主党の臨時政府が成立した。10月23日、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは講和条件としてドイツ帝国における軍国主義と王朝的専制主義の除去を要求した。独立社会民主党らは皇帝ヴィルヘルム2世の退位を要求し、これに反発したルーデンドルフが一転して戦争継続を主張したが、マックス宰相はルーデンドルフを解任して後任にヴィルヘルム・グレーナーが就任した。この臨時政府をユダヤ人指導者に屈した政府と見たバウアー大佐は、ルーデンドルフ、大企業家フーゴ・シュティネスとともにユダヤ人アルベルト・バリンを担ぎ出したが、バリンは12月に自殺した。 10月29日、休戦に反対するドイツ海軍はイギリス艦隊に決戦を挑もうと大洋艦隊主力の出撃を命じたが、疑惑を持った水兵達約1000人が出撃命令を拒絶して反抗した。海軍司令部は作戦中止をもたらした反抗兵士たちを逮捕し、キール軍港に送った。11月1日、キール軍港に駐屯していた水兵たちが釈放を求めたが、司令部は拒絶したため、兵士と労働者によるデモが行われた。鎮圧しようと官憲が発砲したことで、11月4日には労働者・兵士レーテ(評議会、ソビエトのドイツ語訳)が結成され、4万人の兵士・労働者が市と港湾を制圧し、艦に赤旗を掲げた。政府は社会民主党員グスタフ・ノスケを派遣し、水兵らの待遇改善を約束して平常化した。ドイツ海軍の将校が貴族・教養市民層出身者であったのに対して一般兵員は労働者で占められていたため階級対立が反映しやすかったとされる。キールの反乱は鎮圧されたが、レーテ運動はリューベック、ハンブルク、ハノーファーなど各地で展開し、将校は逮捕されて武装解除され、各軍は兵士労働者評議会に制圧された。 11月7日から始まったバイエルン王国におけるバイエルン革命(ミュンヘン革命)ではバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、レーテが権力を掌握した。独立社会民主党のユダヤ人活動家クルト・アイスナーがバイエルン共和国を宣言して首相となった。皇帝への風刺で不敬罪に問われ収監され監獄を出たばかりのアイスナーは静かなデモを指導してバイエルン王国を崩壊させたが、バイエルン王家のヴィッテルスバッハ家はプロイセン王家のホーエンツォレルン家よりも古く、保守的なカトリック国であったバイエルンでユダヤ人社会主義者が首相になったことは、ドイツの王侯貴族に衝撃を与えるとともに、ドイツ帝国崩壊の前段階となった。フランスの『ル・タン』紙は、アイスナーを「みすぼらしい老人」「シャイロック」「ガリツィアのユダヤ人」と描写した。 人民委員評議会政府と休戦条約 連合国から退位を要求されていたマックス内閣はバイエルン革命を知ると皇帝に退位を要求し、皇帝は拒否した。11月9日にベルリンでゼネストが起こると、マックス宰相は政府をドイツ社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ね、さらに社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが独断で共和政の樹立を宣言した。11月10日朝、皇帝はオランダに亡命した。こうして社会民主党、独立社会民主党、民主党からなる人民委員評議会(Rat der Volksbeauftragten)が樹立し、ドイツ帝国が打倒された。革命の早期終息を図るエーベルトは陸軍グレーナー参謀次長との会談で、議会の下の秩序回復、混乱の鎮圧のための軍の出動、そして軍の維持と将校の権威の回復が約束された。1918年11月11日、中央党の国務次官マティアス・エルツベルガーとグレーナーが連合国との休戦条約に調印した。 しかし、署名したのが皇帝やドイツ軍の代表でなかったことや、戦勝国の厳しい要求を容認したこと、またエルツベルガーがホテル来客帳に「なすべきことをせよ(条約承認)。そして飲んで愉快にやろう」に書いたことも右翼の怒りを買った。さらに中央徴税を推奨したために伝統的な領邦国家体制の維持を主張する地方保守層からも怒りを買い「戦勝国のためにドイツから金を搾り取る敵の手先」とされ、戦後ドイツで最も嫌われた政治家となった。エルツベルガーはユダヤ人ではなかったが「ユダヤ人の同胞」とされ、元軍人でコンスルのハインリヒ・シュルツとハインリヒ・ティレッセンによって1921年8月に暗殺され、犯人は喝采された。休戦交渉に参加したユダヤ人銀行家カール・メルヒオールも批判された。 12月16日全国労兵レーテ大会では、急進派がドイツ軍の解体と「国民軍」の創設を要求したが、エーベルトはこれを無視して、翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定、反発した独立社会民主党は政府から離脱し、同党左派のカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクのスパルタクス団は12月末ドイツ共産党を結成し、選挙ボイコットを決定した。1919年1月5日から1月12日にかけてスパルタクス団が蜂起したが、エーベルト首相はノスケ国防相に命じてヴァイマル共和国軍およびドイツ自由軍(義勇軍)を派遣して討伐した。ローザ・ルクセンブルクも東欧ユダヤ人で、保守層から危険視されていた。
※この「講和交渉の混乱とドイツ革命による帝政崩壊」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「講和交渉の混乱とドイツ革命による帝政崩壊」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- 講和交渉の混乱とドイツ革命による帝政崩壊のページへのリンク