講和内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:27 UTC 版)
3月6日、リスト・リュティ首相率いるフィンランド代表団はモスクワへ発った。講和中に赤軍はタリの防衛線を突破しヴィボルグをまもなく包囲するところであった。 講和条約はモスクワ時間3月12日夕方、フィンランド時間3月13日1時に署名された。議定書には付随して、フィンランドにおける戦闘がレニングラード時間正午(フィンランド時間では11時)に終了し、逆にそれまでは継続されることを規定していた。[リンク切れ] フィンランド側の領土損失は、ソ連が1月末にストックホルムを通じてフィンランドに提示していた暫定的講和条約の条件をはるかに超えるものだった。具体的な割譲範囲(第二条)は、 カレリア地峡全域(ヴィボルグ、ソルタヴァラ、ヴィボルグ湾及び島嶼を含む) ラドガ湖西岸ならびに東岸 フィンランド湾内の島嶼(ゴーグラント島など) メルキャルヴィの東方地域 リバチ半島およびスレドニー半島の一部 フィンランドは支配下にあるカルヤラの割譲することを強いられたため、軍関係者及び住民は即急にカレリアから避難しなければならなかった(カレリア避難)。これにより、フィンランド国民の12%にあたる42万2千人のカレリア人が家を失った。 また、ラップランドではソ連軍が占領した地域もあり、このなかでフィンランド側にペツァモ(現ペチェングスキー)がこの講和で返還された。しかし議定書ではフィンランドはペチェングスキーにおけるソ連及びその国民に対してノルウェーへの無制限の通行許可を与える(第六条)ことを余儀なくされた。 フィンランドは更に、ハンゲ半島ならびに周辺水域は30年間に年間800万マルクで租借することを許し、ソ連は海軍基地を設置した(第四条)。 また、ソ連兵のハンコ半島基地への鉄道輸送権利は講和条約には含まれていなかったが、7月9日にスウェーデンがノルウェーを占領するためのドイツ国防軍の列車輸送を認めた後に、ソ連に輸送権利を要求された。 また、割譲領域におけるいかなる器具、機械も渡されることとなった。よってフィンランドは機関車75輌、貨車2000輌、大量の車、トラックそして船を譲渡した。戦闘時、明らかにフィンランド側にあったエンソ(現スベトゴルスク)の工業地帯は講和で割譲され、土地と機器類を譲渡せねばならなかった。 この時制定された「新国境」はソ連の巧妙な作戦と、それに伴うソ連の苦しい経済的実情が裏に隠れていた。具体的には以下のようなものである。 戦前、フィンランドはパルプ工業の代表的な生産国であったが、パルプは爆発物の原材料として重要なものであった。このため、エンソ工業地帯を含め、この講和条約でソ連はフィンランドの工業力の80%以上を占有し、ソ連の爆発物の需要がより満たされるようになった。 フィンランドはこの割譲に伴い、水力発電による電力の3分の1をソ連に譲渡した。電力は主にヴオクサ川の水力発電施設から出るもので、当時電力が20%も不足していたレニングラードにとっては喉から手が出るほど必要なものであった。 新国境の位置はソ連の防衛ドクトリンと一致するようにできていた。つまり、この国境は侵入された際の反撃で敵の領土に侵入しやすくすることを想定するものであった。このドクトリンの下、理想的な国境は敵に川などといった自然要塞を与えてはいけないため、ヴィボルグ湾やサイマー湖とラドガ湖の間の沼地地帯などといった自然的特徴のある場所にではなく、代わりにそれらの西側に国境を走らせた。しかしその後判明することではあるがこの地形は赤軍を包囲しやすいものでもあった。
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