講和とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 09:59 UTC 版)
1792年10月2日、清朝とネパールとの間に講和条約が締結された。条約は概ねネパールで有利あり、摂政バハドゥル・シャハの外交手腕が発揮されていた。条約の内容は以下の通り。 ネパールとチベットの両国は友好を保ち、清国に敬意を払うこと(つまり宗主国として認める)。 外国勢力がネパールを攻撃した際、清国は必ずネパールを支援すること。 ネパール、チベットは清国に対して5年ごとに自国生産物を贈り(五年一貢)、その返礼として清国も友好的贈物をなし、代表団が北京を往来する際の便宜を図ること。 清国はネパール王ラナ・バハドゥル・シャハに「王」の爵位を授けること。 ラサでチベット人による略奪があった場合、清国がネパール側の損害を調査したうえでチベットが弁償すること。 武装した兵士を除き、ネパール市民にはチベット、清国への旅行、工場の開設、交易の許可が与えられること。 ネパール・チベット両国間で他者の土地を領有する目的で紛争が生じた場合、両国の代表が北京の王宮に赴き、最終決定を受けること。 これにより、ネパールは冊封体制に加えられ、事実上の朝貢国となった。また、ネパールと中国の通商関係も構築され、チベットを経由して中国に赴くキャラバン隊は多くの商人と商品をもたらし、それは1908年まで続いた。他方、この戦争を通して清のチベットへの影響が強まった。清朝はチベットの様々な分野の政治改革を行わせ、それとともにダライ・ラマの選定に「金瓶掣籤」という選定法を導入した。 講和が意外と早期に成立したので、ガルワールから戻ったネパールの軍勢は参戦できなかった。また、イギリスが派遣したカークパトリック少佐の率いる代表団は、翌1793年になってカトマンズに到着し、介入の機会を逸した。 その後、イギリスとネパールの直接対決はおよそ20年先、グルカ戦争においてである。
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