工場の開設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/17 04:38 UTC 版)
江戸時代、金沢は加賀国、能登国、越中国を領する加賀藩前田家の城下町として栄えたが、これは城下に居住する武士の消費に支えられたものであった。このため明治維新で武士が職を失うと金沢の経済は急速に衰えた。旧金沢藩(1869年(明治2年)の版籍奉還で加賀藩から改称)の士族長谷川準也はそうした金沢で殖産興業を志し、弟の大塚志良とともに社員(出資者)を募り、金沢製糸会社を設立した。金沢製糸会社の資本金3万円のうち、2万円は内務省から、500円は石川県から給付された士族授産資金であったという。この資金提供は薩摩藩出身の石川県令内田政風が、同じく薩摩藩出身である大久保利通の主導で設立された内務省に働きかけたことにより実現したと考えられている 。 工場の開設にあたり、金沢の大工津田吉之助が富岡製糸場に派遣され、製糸機械の製作法を研究するとともに、女工が送られ製糸機械の操作法を習得した。工場の建設には、津田吉之助のほか、鍛冶職人の太田篤敬らがあたり、1874年(明治7年)3月、金沢長町川岸(金沢市長町1丁目。現在の金沢市立中央小学校の敷地。)に開設された。動力は敷地横を流れる鞍月用水の水を取り入れ、「径九尺」の水車を回し得られていた。半木製の折衷式繰糸機が100台、女工200余人を擁し、富岡製糸場に次ぐ規模であったという。
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