チベットへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 20:14 UTC 版)
「アントニオ・デ・アンドラデ」の記事における「チベットへ」の解説
当時、インドの北東にキリスト教共同体があるといういくつかの報告があった。そこでアンドラデは1624年3月に修士マヌエル・マルケスとともにヒンドゥー教徒のヒマラヤ巡礼の一行に加わった。一行はガルワール王国首都のシュリーナガルを経てアラクナンダー川(ガンジス川の支流)をさかのぼり、ヒマラヤを越えて巡礼の目的地であるバドリーナートに到着した。そこから先に行くことは禁じられていたが、アンドラデはマナ峠(英語版)を越えて8月にチベット西部のツァパラン(英語版)に到着した。グゲ王国最後の王であるタシー・タクパデ(bkra shis grags pa lde)はアンドラデを歓迎した。 アンドラデは冬が来る前にいったんアグラに戻り、新たに3人の宣教師も加わって、翌年再びツァパランを訪れた。報告と異なって現実にはキリスト教徒はチベットのどこにもいなかったが、アンドラデらはツァパランとルトクに教会を建設し、宣教をはじめた。
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