チベットの外交関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 03:51 UTC 版)
「チベット (1912-1950)」の記事における「チベットの外交関係」の解説
1942年、チベットは外務省を設立し、1946年には第二次世界大戦終結関連の祝賀使節を中国とインドに送っている。中国への使節は国民政府主席だった蔣介石宛ての手紙を与えられており、これには「我々は権威ある宗教的の政治統治を通した連続的なダライラマによる国家統治のようにチベットの独立を守り続けたい」と表されていた。この使節団は南京で行われた制憲国民大会にオブザーバーとして参加することを許可された。一方、1942年、アメリカ政府は蔣介石政府に中国のチベットへの主張に異議を唱えたことは無いと語った。チベットは日本に同情的な姿勢を貫き、連合国による中国への武器輸送を拒み中立を保った。 1947年、チベット政府は代表派遣団をインド、デリーで行われたアジア会議に送り、ここで自身を独立国家と表し、インドは1947年から1954年にかけてチベットを独立国家と認識したとされる。また、この会議にはチベット旗が持ち込まれたが、これは公的集会におけるチベット旗の最初の出現だった。 1947年から49年にかけて、ラサはツェポン(Tsepon、蔵相)であるW.D.シャカッパ(W.D. Shakabpa)率いる「通商使節団」をインド、香港、南京、アメリカ、英国へと送った。訪問された国はチベットは中国から独立しているという主張への支援を表現しないように気を配り、この使節と政治的問題を協議しなかった。通商使節団の役人はインドの中国領事館で適用され、新しく支給された中国のパスポートを使い香港経由で中国に入り、3ヶ月間中国に滞在した。一方、他の国は使節団がチベット政府によって支給されたパスポートで旅行することを許した。米国は非公式に通商使節団を受け入れた。使節団は1948年、英国首相クレメント・アトリーにも会った。
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