チベットへの布教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 13:53 UTC 版)
仏教が盛んなインドやスマトラと比較して、チベットの仏教は衰退に向かっていた。当時の中央チベットでは戒律を重視する派と密教を重視する派などが対立していた。取り分け吐蕃のラン・ダルマ王の統治時代に仏教が弾圧され、大きく衰退していた。 ラン・ダルマ王の死後に吐蕃は崩壊するが、王族の一部がチベット西部に移り、グゲ王国として存続した。グゲ王国の王族コレは仏法(ダルマ)の研究に熱心で、梵語の原典を学ばせるため、ヴィクラマシーラ大学にナクツォ訳師を始めとする留学生を派遣し、ナクツォ訳師はそこの教師であるアティーシャにチベットへの伝教を要請した。 アティーシャは年をとりすぎており(60代だった)、一方で大学での研究を続けたいと思っていた為、始めのうちは要請を断っていた。しかし要請を断った日の夕方、ターラー菩薩からチベットに行くべきだとの啓示を受けたため、弟子と共にチベットで仏法を広めることを決意する。1042年にチベットに着き、その後72歳で死ぬまでチベットに滞在した。 チベットについたアティーシャは、チベット人が大変信心深いにも関わらず、仏法に対する理解に乏しいと感じた。ガリーにあったグゲ王国の首都に着くと、アティーシャはグゲ王から密教を広めることを要請され、大きな感銘を受ける。アティーシャはこの地に3年間留まり、著書を書くなどして布教に努めた。また、この時期に後にカダム派(英語版)を創始するドムトン(英語版)(1005-1064)がアティーシャに弟子入りしている。
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