日本・明講和交渉
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碧蹄館の戦いの後、後退した明軍が開城に入りしばらくすると、軍糧が尽きた。朝鮮側は明軍のために各地で食料をかき集めたが足らず、情勢は緊迫していた。明軍の李如松提督の部下の諸将が、軍糧が尽きたことを理由として、軍を撤退させることを提督に要請した。提督は軍糧を用意できない朝鮮朝廷に怒り、柳成龍ら朝鮮朝廷の要人を呼び出し庭にひざまずかせ、大声で叱責し処罰しようとし、柳成龍は涙を流し謝罪した。戦乱により朝鮮の国土は荒れ民衆は飢えていたが、朝鮮朝廷は集めた食料のほとんどを明軍の軍糧として提供した。文禄2年(1593年)3月、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ、窮した日本軍は講和交渉を開始する。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣、小西・加藤の三者で会談を行い、4月に次の条件で合意した。 日本軍は朝鮮王子とその従者を返還する 日本軍は釜山まで後退 明軍は開城まで後退 明から日本に使節を派遣する 明側では宋応昌・沈惟敬が共謀し、部下の謝用梓と徐一貫を皇帝からの勅使に偽装して日本に派遣することにした。一方、日本の秀吉には、この勅使は「侘び言」を伝える者だと報告されていた。 この講和交渉は日本と明との間で行われ、朝鮮は交渉の場から外された。朝鮮側は国王以下一貫して講和に反対していたが、明軍は朝鮮の立場を一切無視して日本側との交渉を始めた。朝鮮政府は交渉に口を挟む権利がなく、ただ明にすがっているだけだった。李如松は表向きは朝鮮側の意向を体して日本軍征討を約束するが、実際には朝鮮軍に日本軍への攻撃を停止させる命令を出すというありさまであった。 4月18日、合意条件に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使・沈惟敬・朝鮮の二王子(臨海君、順和君)とともに釜山まで後退した。この時二王子が礼を尽され清正の護衛と共に南下した事を感謝する旨の書状が紀州徳川家に残されている。 朝鮮側は李如松に日本軍を追撃するよう嘆願したが、李如松はこれを無視し、日本軍を攻撃することはなかった。 5月1日、秀吉は大友義統・島津忠辰・波多親を改易処分にする。表向きの理由は戦闘中の失態に対する懲罰であるが、秀吉が掲げた「征明」方針の挫折が講和交渉によって明白になった以上、誰かに責任を負わせる必要があったため、とする説がある。 5月8日、小西行長と石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行は明勅使と共に日本へ出発。 5月15日、明勅使は名護屋で秀吉と会見。秀吉は以下の7つの条件を提示した。 明の皇女を天皇の妃として送ること 勘合貿易を復活させること 日本と明、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと 朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城を朝鮮に返還すること 朝鮮王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと 捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬を通じて朝鮮に返還すること 朝鮮の重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること 石田・小西らは、本国には書き直して報告すればよいと進言。6月28日に小西行長の家臣内藤如安を答礼使として北京へ派遣することとした。7月中旬、釜山に戻ってきた勅使に朝鮮の二王子が引き渡された。 一方、明へ向かった内藤如安は秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の「降伏」を示す文書が必要だと主張。小西行長は「関白降表」を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年(文禄3年)の12月に北京に到着した。
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