日本・明講和交渉とは? わかりやすく解説

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日本・明講和交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)

文禄・慶長の役」の記事における「日本・明講和交渉」の解説

碧蹄館の戦いの後、後退した明軍開城入りしばらくすると、軍糧尽きた朝鮮側明軍のために各地食料をかき集めた足らず情勢緊迫していた。明軍李如松提督部下諸将が、軍糧尽きたことを理由として、軍を撤退させることを提督要請した提督軍糧用意できない朝鮮朝廷に怒り柳成龍朝鮮朝廷の要人呼び出し庭にひざまずかせ、大声叱責し処罰しようとし、柳成龍は涙を流し謝罪した戦乱により朝鮮国土荒れ民衆飢えていたが、朝鮮朝廷は集めた食料のほとんどを明軍軍糧として提供した文禄2年1593年3月漢城日本軍食料貯蔵庫であった龍山倉庫明軍焼かれ窮した日本軍講和交渉開始する。これを受けて明軍も再び沈惟敬派遣小西加藤三者会談行い4月次の条件合意した日本軍朝鮮王子とその従者返還する 日本軍釜山まで後退 明軍開城まで後退 明か日本使節派遣する 明側では宋応昌沈惟敬共謀し部下の謝用徐一貫を皇帝からの勅使偽装して日本派遣することにした。一方日本秀吉には、この勅使は「侘び言」を伝える者だと報告されていた。 この講和交渉日本と明との間で行われ朝鮮交渉の場から外された。朝鮮側国王下一貫して講和反対していたが、明軍朝鮮立場一切無視して日本側との交渉始めた朝鮮政府交渉口を挟む権利がなく、ただ明にすがっているだけだった李如松表向き朝鮮側意向体して日本軍征討約束するが、実際に朝鮮軍日本軍への攻撃停止させる命令を出すというありさまであった4月18日合意条件に基づき日本軍漢城出て、明の勅使沈惟敬朝鮮二王子(臨海君順和君)とともに釜山まで後退した。この時二王子が礼を尽され清正護衛と共に南下した事を感謝する旨の書状紀州徳川家残されている。 朝鮮側李如松日本軍追撃するよう嘆願したが、李如松はこれを無視し日本軍攻撃することはなかった。 5月1日秀吉大友義統島津忠辰波多親改易処分にする。表向き理由戦闘中失態対す懲罰であるが、秀吉掲げた「征明」方針挫折講和交渉によって明白になった以上、誰か責任負わせる必要があったため、とする説がある。 5月8日小西行長石田三成増田長盛大谷吉継三奉行は明勅使と共に日本出発5月15日、明勅使名護屋秀吉会見秀吉は以下の7つ条件提示した。 明の皇女天皇の妃として送ること 勘合貿易復活させること 日本と明、双方大臣誓紙とりかわすこと 朝鮮八道のうち南の四道日本割譲し、他の四道および漢城朝鮮返還すること 朝鮮王子および家老1、2名、日本人質として差し出すこと 捕虜にした朝鮮王子2人沈惟敬通じて朝鮮返還すること 朝鮮重臣たちに、今後日本背かないことを誓約させること 石田小西らは、本国には書き直して報告すればよいと進言6月28日小西行長家臣内藤如安答礼使として北京派遣することとした。7月中旬釜山戻ってきた勅使朝鮮二王子が引き渡された。 一方、明へ向かった内藤如安秀吉の「納款表」を持っていたが、明の宋応昌秀吉の「降伏」を示す文書必要だ主張小西行長は「関白降表」を偽作して内藤託し内藤は翌1594年文禄3年)の12月北京到着した

※この「日本・明講和交渉」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「日本・明講和交渉」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。

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