ローマ以後とサクソン侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 21:28 UTC 版)
「コルチェスター」の記事における「ローマ以後とサクソン侵入」の解説
400年前後にコルチェスターの防御を迅速に再編成した証拠には、バルケーン・ゲートの封鎖が含まれる。考古学的発掘物は、公の建物が打ち捨てられていることを証明し、8世紀の年代史家ネンニウスは自身の作った30のブリテンの主要都市リストの中で、コルチェスターをCaer Colunと呼んで記載を残した。考古学者モーティマー・ホィーラーは、ロンドン、コルチェスター、セント・オールバンズ間の三角形に初期アングロサクソン人らが欠如していることを最初に提案し、アングロサクソン人の到来後も『ローマ支配の三角形』の下でブリタニア支配が続いていたことを示すものであるとした。しかしその頃から、発掘物はいくつかの初期サクソン人占領をさらけ出している。5世紀のローマ人住宅遺跡の上に建つ木製のあばら屋がそれである。サクソン人らは町をColne ceaster、コロニアのローマ人要塞と呼んだ。ホリー・トリニティー教会の塔は後期サクソン様式である。9世紀後半、イースト・アングリアからヴァイキングたちがやってきてコルチェスターとエセックスの大半を荒らし回った。町はヴァイキング支配を受けそれが920年まで続き、エドワード長兄王軍の包囲により降伏した。
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