ローマ人殺しカロヤン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:50 UTC 版)
「アドリアノープルの戦い (1205年)」の記事における「ローマ人殺しカロヤン」の解説
アドリアノープルの戦いから2年後、カロヤンは他のラテンの都市や、彼に対して陰謀を企て始めたビザンチンの反政府勢力の都市を焼き払うために出発した。血なまぐさい行為だったが、ビザンチンの歴史家ジョージ・アクロポリテスは、皇帝がこのような命令を出した理由について次のように説明している。「バシレイオス2世がブルガリアに対して行った悪事に対する復讐であり、バジルが自らをブルガリア人殺しと称したように、皇帝は自らをローマ人殺しと称したのである。」
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