ローマ人の後の利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 05:32 UTC 版)
「ロンドン・ウォール」の記事における「ローマ人の後の利用」の解説
西ローマ帝国の崩壊によりロンディニウムは"ブリタンニア"の州都ではなくなったが、セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会 (St Martin-in-the-Fields) 近辺の地域の、ブリタニアにおけるローマ文化は450年頃まで続いた 。「アングロサクソン年代記」には、ブリタニアのローマ人 (Romano-British) がケント州クレイフォードでのクレックガンフォードの戦い (battle of Crecganford) において、サクソン人侵略者のリーダー、ヘンギストとホルサ の部隊に血まみれの敗北を喫した後、ロンドンに敗走したことが記されているので、壁の防衛力はその後も以前の驚異的な強さの一部を維持していたに違いないと考えられる。 500年頃から、"ランデンウィック (Lundenwic)" として知られているアングロ・サクソン人の支配地は、同じ地域で、放棄された古いローマ人の町の西側にわずかながら発展した 。680年頃までにロンドンは十分に復興し、サクソン人の主要な港となった。しかしながらロンドン・ウォールはきちんと維持・管理されず、ロンドンは851年と886年の2回にわたってヴァイキングの被害を受けた 。 886年、イングランド七王国のウェセックス王、アルフレッド大王は、デーン人ヴァイキングの王、グスルム (Guthrum) (英語版) と、ヴァイキングが侵略により獲得した政治的・地理的に制圧している地域に関する事項について、正式に合意した。イングランドの東部と北部では、概ねロンドンからチェスターまで境界線が伸びており、デーン人はデーンロウを築くこととなった。同じ年「アングロサクソン年代記」によると、ロンドンはアルフレッド大王により「刷新」された。考古学的研究により、これはランデンウィックの放棄と、古いローマ人の壁の中での生活と商取引の復活を伴うことが明らかになっている。これはヴァイキングに対するウェセックス王国の徹底した防御策と、マーシア王国を制圧したヴァイキングに対する攻撃的戦略の構築に関するアルフレッド大王の方針の一部だった。 都市のアクティビティーが劇的に増加した950年頃まで、ロンドンがゆっくりと成長するのにつれて、ロンドン・ウォールは修復された 。994年にロンドンを攻撃したヴァイキングの大軍隊は、敗北を喫した 。
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