ローマ人の壁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 05:32 UTC 版)
ロンドン・ウォールが建設された正確な理由は明らかになっていないが、2世紀後半か3世紀初頭には建てられたようである:47 。これは紀元後120年の都市要塞建設の80年後で、都市の新しい壁の一部とするために北と西の壁は厚くなり高さは2倍になった。建設は少なくとも4世紀終わりまで続けられ、410年にローマ人がブリテン島 (当時の呼称は"ブリタニア") から撤退する前の最後の主要な建設事業となった。建設の理由は、180年代にハドリアヌスの長城を越えたピクト人による、ブリテン島北部への侵略と関係していたのかもしれない。当時のブリテン島の統治者クロディウス・アルビヌスがローマ皇帝としての継承権を主張して自身の権力を強化した、2世紀後半に起きた政争と関係していた可能性もある。アルビヌスはライバルのセプティミウス・セウェルスと戦い、197年フランス・リヨン近くのルグドゥノムの戦い (Battle of Lugdunum) (英語版) で戦死した。壁の建設とセウェルスが行った次のスコットランドへの進軍は景気を刺激し、3世紀初頭のロンディニウムに経済的繁栄をもたらした。 ロンドン・ウォールの関門は、ローマ人の道路路線のネットワークと合わせられていた。東のラドゲート (Ludgate) (英語版) から西のオールゲート (Aldgate) (英語版) までのオリジナルの関門は、時計回りに、ラドゲート・ニューゲート (Newgate) (英語版) ・クリップルゲート (Cripplegate) (英語版) ・ビショップスゲート (Bishopsgate) (英語版) ・オールゲートである。ニューゲートとクリップルゲートの間にあるアルダースゲート (Aldersgate) (英語版) は350年に追加された :47。クリップルゲートとビショップスゲートの間にあるモーゲート (Moorgate) (英語版) はさらにあと、中世に入って建てられた。 ロンドン・ウォールの長さと大きさは、ローマ人のブリテン島における建設事業の中で最大のものの一つとなった。完成した壁は関門と塔と防御溝を備えており、ケンティッシュラグストーン で作られていた。ラグストーンはメードストン近くの採石場から小舟で運ばれた。約 130 ヘクタール (330 エーカー) の面積を囲むのに、3.2 キロメートル (2 マイル) の長さが必要だった。幅は 2.5 メートル (8 フィート 2 インチ) から 3 メートル (9.8 フィート) 、高さは 6 メートル (20 フィート) だった。外壁の前の溝は深さ 2 メートル (6 フィート 7 インチ) 、幅は 5 メートル (16 フィート) だった。ロンドン・ウォールの東側の区間には約 64 メートル (20 フィート) の間隔で少なくとも22の塔があった。 3世紀後半にロンディニウムがサクソン人海賊に何度も襲われた後、280年に追加で河川側の壁の建設が始められた :47。
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