ローマ人の到来とは? わかりやすく解説

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ローマ人の到来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:08 UTC 版)

ローマ・ブリトン文化」の記事における「ローマ人の到来」の解説

紀元前1世紀ガリア戦争の際、ガイウス・ユリウス・カエサルローマ軍率いて初めブリテン島侵攻した。しかしこれはあくまでも敵対的な部族を叩くための遠征であり、ブリテン征服までは至らなかった。43年クラウディウス帝の時代近隣属州兵を中心としたローマ軍が、現在イングランドとして知られるブリトン・ケルト人の領域侵攻した数年戦争の末にブリタンニア属州設立され最終的には後のイングランドウェールズ、それにスコットランド一部を覆うようになった商人役人など数千人のローマ人やその家族が、ブリテン島入植したスペインシリアエジプトゲルマニアなど帝国各地からやってきた兵士ローマ都市駐屯し、その多く現地ブリトン人女性と結婚した。4世紀末の時点で、ブリタンニア総人口360万人のうち12.5万人ローマ軍兵士かその家族および被扶養者であった。またシリア属州彫刻家地中海東岸医師など、多く専門職人々ブリタンニア移民した。こうしてブリタンニア文化宗教多様化した。ただ大部分ブリトン人は、ローマ習俗受け入れつつもケルトとどまった大部分人口都市以外に散らばっていた。前述360万人のうち都市住んでいたのは24万人ほどで、そのうち首都ロンディニウム人口は6万人ほどだった。ロンディニウムは、先住民ブリトン人大陸中東北アフリカからの移民混ざり合った多文化都市となっていた。他のローマ都市帝国各地からかなりの移民流入して多様な文化性を持っていた.。 その後3世紀後半には、ブリタンニアはたびたびローマから政治的に独立する事態起こった260年にはガリア帝国一部となり、さらにその20年後にはカラウシウスやアッレクトゥスがブリタンニアローマ皇帝名乗り一時期大陸から事実上独立していた。 この3世紀にはキリスト教ブリテン島到来したデキウス帝の時代、聖アルバヌス(オルバン)がローマ都市ウェルラミウム近く殉教している。

※この「ローマ人の到来」の解説は、「ローマ・ブリトン文化」の解説の一部です。
「ローマ人の到来」を含む「ローマ・ブリトン文化」の記事については、「ローマ・ブリトン文化」の概要を参照ください。

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