クラウディウス
クラウディウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/07 23:03 UTC 版)
クラウディウス Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus | |
---|---|
ローマ皇帝 | |
![]() 胸像 | |
在位 | 41年1月24日 - 54年10月13日 |
出生 |
紀元前10年8月1日![]() ![]() |
死去 |
54年10月13日(63歳没)![]() |
埋葬 | ローマ、アウグストゥス廟 |
養嗣子 | ネロ |
配偶者 | プラウティア・ウルグラニッラ |
アエリア・パエティナ | |
メッサリナ | |
小アグリッピナ | |
子女 |
ドルスス クラウディア(認知せず) アントニア オクタウィア ブリタンニクス ネロ(養子) |
王朝 | ユリウス=クラウディウス朝 |
父親 | 大ドルスス |
母親 | 小アントニア |
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 紀元前10年8月1日 - 54年10月13日[1])は、ローマ帝国の第4代皇帝である。
出自
母方の祖父が第2回三頭政治を構成したひとりであるアントニウスであり、父方の祖母が初代皇帝アウグストゥスの後妻リウィア・ドルシッラである。また、アウグストゥス帝その人も母方の祖母の弟、つまり大叔父にあたる。さらに、父である大ドルススの兄が第2代皇帝ティベリウスで、実兄が第3代皇帝カリグラの父ゲルマニクス、加えて最後の妻にして第5代皇帝ネロの母である小アグリッピナは姪に当たる。このように4親等以内に元首政初期のローマ国政の重要人物が集中するユリウス=クラウディウス朝の一員に生まれている。しかし後述のように、身体的ハンデから一族中では疎まれ、長らく公務に関与することは出来なかった。
皇帝としての業績と死因
カリグラが暗殺されると、プラエトリアニに担がれる形で皇帝に就任した。就任に際して元老院の承認を受けたものの、実質的にはプラエトリアニの軍事力によって就任しており、軍事力がローマ皇帝を決定する最初の例となった。また、ユダヤの統治問題などを解決した。身体の不具合から元老院議員に影響力や友誼を持っていなかったため、カエサル家の解放奴隷を積極的に行政に登用した。このことは非元老院議員の統治への関与を増大させ、皇帝への権力集中や官僚制の発達を推進した。毒キノコの中毒によって死去するが、4番目の妻であった小アグリッピナの暗殺とする説が古代から有力視されている。
生涯
皇帝即位以前
紀元前10年、大ドルススと小アントニアとの間にガリアで生まれる。父や兄に似ず生来病弱で、難病(症状から脳性まひとの推測もなされている)に苦しめられた結果、動作がぎくしゃくとし、話すときはどもり、涎を垂らす、片足を引きずるなどの癖があったという。母の小アントニアはこの息子に全く愛情を注がず、「人間の姿をした怪物」とまで呼んだ。ユリウス=クラウディウス朝に属する男性としては珍しく公務から遠ざけられ、長くエクィテスの階級に留まった。この間にエトルリア史やカルタゴ史といった歴史著述を行い、歴史家としての足跡を残した。カリグラの皇帝就任後、紀元37年にカリグラと共にコンスルに就任、同時に元老院議員に加えられた。
皇帝即位から崩御まで
カリグラの暗殺によって、ローマには一時的に空位の状態が発生した。元老院にはこの機に乗じて共和政の復活を目論む者もいたが、共和政が復活すると職を失うことになるプラエトリアニが、カリグラの崩御から24時間足らずでクラウディウスを皇帝に擁立したことで、それは阻まれた。この時クラウディウスは、プラエトリアニとの間に密約を行い、各兵士に1万5千セステルティウスという莫大な賄賂を約束している。
プラエトリアニに担ぎ出されて皇帝に就任するまで、クラウディウスはあまり目立たない存在であった。しかし、この50歳の新帝は即位すると同時に、先帝カリグラが文字通り崩壊させたローマの財政を建て直した。また、ブリタンニア遠征はクラウディウスの時代に、ユリウス・カエサルの遠征以来初めて本格的に行われ、実際にブリタンニア南部の征服に成功している。のちに皇帝となったウェスパシアヌスなども、ブリタンニア遠征の際に初めてその才能を見出されている。またカエサル以来初めて、ガリア出身の元老院議員の議席を認めたのもクラウディウスである。
一方でクラウディウスは、家庭的にはあまり恵まれなかった。クラウディウスはその人生において4度の結婚をした。3番目の妻メッサリナは、夫の権力を使って貴族たちに関係を迫り、それを拒んだ者は夫の名前を使って処刑した。4番目の妻小アグリッピナは権力のためだけに夫に近付き、元々は法律で許可されていなかったはずの叔姪婚を行った。多くの古代史家は、クラウディウスがネロではなくブリタニクスを次期皇帝に推そうとしたため、アグリッピナに毒殺されたと主張している。毒殺に関する同時代の資料は異なっている。タキトゥスによれば、毒キノコは毒殺者ロカスタによって採取され、彼の召使ハロトゥスによって皇帝に献上されたと言われている。カッシウス・ディオ、彼もロクスタが毒を準備したと書いているが、ディオは毒を投与したのはハロトゥスではなくアグリッピナであったと述べている。
崩御後
後にクラウディウスの実の息子ブリタンニクスも、小アグリッピナの連れ子でクラウディウスが養子としたネロによって殺された。クラウディウスには息子としてブリタンニクスの他にクラウディウス・ドルスス(? - 20年)がいたが夭折しており、ブリタンニクスの死により男系は完全に断絶している。女系でもブリタンニクスの同母姉クラウディア・オクタウィアは62年にネロによって処刑され、異母姉クラウディア・アントニア(30年 - 66年)が66年に死去するなど、短命であった。クラウディア・アントニアは2度結婚しており、最初はガイウス・ポンペイウス・マグヌス(? - 47年)と結婚したが子はなかった。次の配偶者ファウストゥス・コルネリウス・スッラ・フェリクス(22年 - 62年)との間に男子(47年以後の誕生)を儲けるが、夭折している。
最初の妻プラウティア・ウルグラニッラはクラウディウスとの離婚から5か月後にクラウディアという女子を出産しているが、クラウディウスは彼女の姦通を疑っており、クラウディアを自身の実の娘として認知することはなかった。
年表
- 紀元前10年 大ドルススと小アントニアとの間に生まれる。
- 41年 第4代皇帝に就任。「国家反逆罪法」による処罰を廃止する。
- 43年 ブリタンニア遠征を開始する。
- 44年 ブリタンニアから帰国し、凱旋式を挙行する。
- 48年 国勢調査を行う。
- 49年 姪の小アグリッピナと結婚。
- 50年 小アグリッピナの連れ子であるドミティウス(後の皇帝ネロ)を養子とする。
- 52年 クラウディア水道(着工はカリグラの時代)が完成する。
- 54年 死去。
系図
カエサルの祖父 | マルキア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大マリウス | ユリア | カエサルの父 | アウレリア | セクストゥス・カエサル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小マリウス | 小コルネリア | ユリウス・カエサル | 小ユリア | アティウス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大ポンペイウス | ユリア・ カエサリス | オクタウィウス | アティア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スクリボニア | アウグストゥス | リウィア・ ドルシッラ | クラウディウス・ ネロ | アントニウス | 小オクタウィア | 小マルケッルス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグリッパ | 大ユリア | ティベリウス | 大ドルスス | 小アントニア | 大アントニア | L・ドミティウス・ アヘノバルブス | 小マルケッラ | メッサリヌス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大アグリッピナ | ゲルマニクス | クラウディウス | G・ドミティウス・ アヘノバルブス | ドミティア ・レピダ | バルバトゥス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カエソニア | カリグラ | 小アグリッピナ | メッサリナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユリア・ ドルシッラ | ネロ | クラウディア・ オクタウィア | ブリタンニクス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
参考文献
- スエトニウス『ローマ皇帝伝 第1巻(上)』国原吉之助訳、岩波書店(岩波文庫)、1986年、339頁。
- フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌第6巻』秦剛平訳、筑摩書房(ちくま文庫)、2000年、381頁。
- クリス・スカー『ローマ皇帝歴代誌』(青柳正規監修、月村澄枝訳、創元社、1998年、53頁)
関連する文学作品
- ロバート・グレーヴズ『この私、クラウディウス』(多田智満子・赤井敏夫訳、みすず書房、2001年)
関連項目
クラウディウス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:28 UTC 版)
「ユリウス=クラウディウス朝」の記事における「クラウディウス」の解説
暴君という君主制の最も大きな弊害を目の当たりにした後も、民衆や元老院は帝政を倒す選択肢を採れなかった。その代わりに近衛兵隊によって、カリグラの叔父でティベリウスにとってもう一人の甥、ゲルマニクスの弟であるクラウディウスが皇帝に推挙された。 帝位継承に関する議論から元々排除されていたことからもわかるように、クラウディウスは病弱で皇帝たりうる能力に欠けるとみなされていた。しかし実際に即位すると、クラウディウスは有能な皇帝であることを示した。彼は多くの政治改革や公共建築の増強を推し進めることで、暴政の痛手から帝国を再建した。さらに外征でも大きな行動を起こし、ガリアからさらに北方にあるブリタニア島を占領して属州ブリタンニアを編成した。生真面目な性格のクラウディウスは元老院や民衆からの支持も安定し、ようやく帝政は安定期を迎えた。一説に彼は、一日に最低でも20以上の命令書を各地に書き送る日々を過ごしていたという。 反面クラウディウスは、私生活という点ではやはりそれまでの皇帝と同じく、不幸に苛まれなければならなかった。彼は生涯に3回の離婚と4度の結婚を繰り返した。晩年に結婚した小アグリッピナは、兄ゲルマニクスの長女であり、先帝カリグラの妹で自らの姪という叔姪婚であった。カリグラ時代から悪名の高かった小アグリッピナは「先帝の妹」という立場を利用して、自らの連れ子である養子ネロを、夫の実子であるブリタンニクスよりも優先して後継者とさせた(ただしブリタンニクスの生母メッサリナの悪評も考慮に入れるべきである)。 クラウディウスが病没すると、新たな皇帝となったネロはブリタンニクスを毒殺した。後に皇帝となるフラウィウス朝のティトゥス帝はブリタンニクスの親友であり、友の毒殺を悼んで自らの治世において記念像を作らせている。 何人かの歴史家は、クラウディウス自身も小アグリッピナに暗殺されたのではないかと伝えている。
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