ブリタンニア
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ブリタンニア(ラテン語: Britannia)は、古代ローマがグレートブリテン島南部に設置した属州の一つ。また属州の置かれた島(現在のグレートブリテン島)とその周辺の小群島をも指す。住民は主にケルト系ブリトン人で、属州化以降ローマ人やガリア人、ゲルマン人が主に兵士として渡来した。ローマの支配は43年から410年まで及び、現在のイングランド南部を中心にローマ化が進んだ。五賢帝の一人ハドリアヌスが北部からの異民族の侵攻を食い止めるために築いたハドリアヌスの長城が有名である。
- 1 ブリタンニアとは
- 2 ブリタンニアの概要
- 3 帝政後期の混乱、ローマ軍の撤退と支配の終焉
ブリタンニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 18:14 UTC 版)
8月22日又は8月26日 - ブリタンニアが敵であるガリアに援助を送ったため、カエサルはブリタニアン侵攻を命令した。悪天候とガリアでの反乱により、遠征の成果はほとんどなかったが、遠征隊が安全にガリアに戻ってくると、元老院は20日間に及ぶ感謝祭を行った。
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ブリタンニア(ブリテン島)
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「古代末期のキリスト教」の記事における「ブリタンニア(ブリテン島)」の解説
「ブリタンニア」を参照 グレートブリテン島はローマ帝国の属州ブリタンニアとして支配されていたが、アイルランド人やサクソン人の反乱、そしてイタリアやガリアなどへのゲルマン人侵入によって、ホノリウス皇帝は410年に属州ブリタンニアを引き上げた。ブリテン島ではその後ケルト民族ブリトン人が支配していたが、5世紀半ばになると北海沿岸のサクソン人、アングル人、ジュート人などのゲルマン民族がブリテン島に上陸した。ケルト人とローマ人の血を引いたブリトン貴族アルトゥリウスはサクソン人を迎え撃ち、このアルトゥリウスがアーサー王のモデルといわれる。やがて6世紀にアングロ・サクソン人による七王国(ヘプターキー)が誕生した。
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ブリタンニア
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「ガイウス・スエトニウス・パウリヌス」の記事における「ブリタンニア」の解説
59年、死亡したクィントゥス・ウェラニウス(en)の後を受け、ローマ支配下のブリタンニア長官に任命された。彼はウェラニウスの方針を引き継ぎ現在のウェールズ地域にあった諸部族を制圧し、これを赴任後2年で完遂した。彼の高まった名声はグナエウス・ドミティウス・コルブロと並び称され、将来ブリタンニア長官ともなる二人の男が配下に加わった。クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスは使節使として第9軍団ヒスパナに、グナエウス・ユリウス・アグリコラはトリブヌスとして第2軍団アウグスタに配置された。
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