ブリタル反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 17:22 UTC 版)
日本の敗色が濃くなっていた1945年2月14日深夜、ジャワ東部のブリタル(スカルノの出身地)で、ペタの大団が反日蜂起を起こした。それに先立つ1944年2月には米の強制供出や労務者問題に反発して、ジャワ西部・プリアンガン州のシンガパルナ村で、イスラーム指導者に率いられた農民蜂起が起こり、日本人憲兵3人が殺害された(逮捕者800人超、指導者ムストファら23人は処刑された)。こうした反日抵抗運動は1944年以降に続発するようになるが、そのなかでもブリタル反乱は、日本が軍事教練を施した軍事組織が公然と蜂起した点で、軍政当局に与えた影響も小さくなかった。 この反乱事件では4人の日本人が殺害されたが、すぐに鎮圧され、反乱に関与したとして6人の兵士が処刑された。反乱の首謀者とされたペタの小団長スプリヤディは終戦前後の混乱の中で行方不明となった。インドネシアの独立宣言後、スプリヤディはその功績を讃えられ、発足した正規軍の初代司令官に任命されたが、その行方は依然として知られなかった。
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